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栗生楽泉園 その歴史


●太平洋戦争前

1.湯之沢集落

 中世以降草津温泉は、いろいろな病気に効くということから全国から大勢の患者が集まり、江戸時代末期には年間1万人にもおよぶ湯治客でにぎわいました。しかし天明3年の浅間山の噴火や幕末から明治維新にかけての動乱が影響し、湯治客は慶応元年(1865年)の11390人に対し、2年後には4627人と半数以下に減少しています。

それに追い討ちをかけたのが明治2年の村の中心部のほとんどを焼き尽くした大火事でした。
温泉は草津の重要な収入源だったため、村は復興に全力をつくすことになります。

 草津温泉に再び当時客が集まり繁栄していくにつれ、一般の健常者はそれまでの普通に行われていたハンセン病患者(以下、単に患者と書きます)との「混浴」を忌避するようになります。小さいながらも差別の芽が生れはじめてきたのです。 このため温泉業者は、患者たちを人目につかないよう屋根裏や物置小屋に泊まらせ、夜中に入浴させたといいます。

湯之沢集落(1920年代)

湯之沢付近の現在

 やがて明治19年(1886年)、村側の発案で患者たちは村の東はずれの一画に、集中して移転させることになりました。この一画が「湯之沢集落」です。
しかしここは、背丈ほどもある熊笹が生い茂り、持ち金を使いはたした湯治客を、生きながら投げ棄てて「投げ捨ての谷」とか、「骨が原」と呼ばれていた場所でした。さらに中央を流れる川には、ゴミや人糞を流して処理していたきわめて不衛生な場所だったのです。

それでも湯之沢は患者たちにとって自治が認められた地域であり(なぜなら行政上は、かえりみられなかったから)、自由な別天地でした。
患者たちは新しい村づくりのため、不自由な体で荒地を切り拓いていったのです。やがて湯之沢集落が全国的に知られるようになると、熊本からハンナ・リデルも視察のため訪れるようになりました。

2.コンウォール・リーの来草

 当時湯之沢に、光塩会(こうえんかい)というキリスト教信仰の団体がありました。
そのメンバーだった宿澤薫(しゅくさわ かおる)の要請を受け、コンウォール・リー(イギリス人 1857〜1941 1907年来日)は、彼女の日本語の教師であった井上照子とともに1915年草津を訪問。以後多くの施設を立ち上げ、ハンセン病患者のための生活、教育、医療に力を注ぎました。特に彼女が建てたバルナバ医院は、当時湯之沢にあった唯一の病院だったのです。
コンウォール・リーは「リーかあさま」と慕われ、その遺徳は現在草津町の「リーかあさま記念館」や、頌徳公園の胸像、顕彰碑に残されています。

コンウォール・リー リーかあさま記念館と
隣接するバルナバ教会

 

望小学校 バルナバ医院

 

頌徳公園のコンウォール・リー胸像 頌徳公園の顕彰碑
(クリックで拡大)
コンウォール・リーの墓所

 

3.湯之沢の解散と栗生楽泉園開園

 昭和6年(1931年)、癩予防法が成立すると、ハンセン病患者には「隔離政策」が待っていました。
翌年10月、内務省の告示により、「国立癩療養所栗生楽泉園」が設置され、各施設が徐々に開設されるようになりました。

 草津町側は湯之沢集落を解散し、栗生楽泉園への入園を画策しましたが、隔離政策に反発する住人の反発が強く、さらにコンウォール・リーの活動も徐々に成果を挙げはじめており、入園(つまり隔離)は遅々として進みませんでした。

しかし昭和はじめの軍国主義のなかで、ハンセン病は国辱、その患者は非国民とされ、時代の動きとともに湯之沢は解散せざるを得ない方向へ追い込まれていきました。昭和15年(1940年)、物資不足と資金難のためバルナバ教会と病院の閉鎖により、湯之沢の解散は決定的になったのです。

 昭和16年(1941年)3月、群馬県当局と湯之沢側との交渉の場で、県側は「湯之沢の住人は移転命令を受けた日より1年以内に、救護法または母子保護法の該当者、および無職の者は2ヵ月以内に移転すること」など、7項目を提示しました。この7項目は、その後の交渉で多少変更はされましたが、結局は交渉・条件提示は「命令」となり、同年5月から翌年12月31日までに移転せざるを得なくなったのです。湯之沢から楽泉園への移転者数は、132戸、386名でした。

4.無らい県運動

 ハンセン病患者の撲滅を目指した癩予防法は、「無らい県運動」として全国に展開され、草津もその例外ではありませんでした。そして「国辱病」として犯罪者のように全国の療養所に収容された患者に待っていたのは、あまりにも過酷な現実でした。

1931年(昭和6年)の満州事変からはじまる15年戦争で、国家予算のほとんどは軍事費に回され人手は不足し、患者が患者を看護、介護する・・軽症の患者による重症患者の看護、介護する。また所内の作業も患者が行いました。ここは治療のための療養所ではなく、強制労働の場だったのです。

あるいは、政府は患者の治療ではなく撲滅の意味で、あえて過酷な労働を強制したとも考えられます。なぜなら栗生楽泉園では、時折政府に依頼された人の講演会が開かれましたが、ある軍人は「お前たち(患者のこと)がお国のためにできる唯一のことは、早く死ぬことだ」とさえ言ったのです。

5.栗生楽泉園にて

○名前

 栗生楽泉園にかぎらず、入園した元患者たちの多くは実名ではなく園名・・・その療養所内での名前に変更しています。家族だけではなく、親戚縁者をはじめ、世間に実名が出ないようにするためです。このため自分の親戚にハンセン病患者がいたことを知らない人も多かったのです。

○労働

炭.背負い患者作業

冬は暖を得るための炭を自力で運ばなければならなかった。

患者が亡くなっても村の火葬場は使用を拒否されて使えない。

所内火葬場は1964年(昭和39年)草津町火葬場へ移るまで使用(風雪の紋より)

出棺

所内火葬場

 

食事運搬

天秤棒による患者作業。雪道、泥んこ道に苦しんだ(風雪の紋より)

綿内工場

ここで僚友の一人が死亡した(風雪の紋より)

 

○患者のために?

保育所

かつてこの保育所で子どもたちは飢えと寒さに苦しんだ(風雪の紋より)       

患者演劇発表会

 

○人権無視

所内監禁所

各療養所には「監禁所」が設けられ、反抗的だったり逃亡のおそれのある患者は所長の一存で「投獄」されました。

 

所内監禁所独房
重監房跡地

 (職員にとって)問題のある患者は監禁所に入れられましたが、これをさらに強化した懲罰房が草津だけにあった重監房です。重監房に関しては、ここをご覧ください。

 

↑クリックしてください

命カエシテの碑

 入所者には条件付で結婚が認められていました。条件とは断種、俗いうパイプカット。それでも万が一女性が妊娠すれば(もちろん夫婦でなく、恋人同士であっても)、堕胎が強制されました。堕胎された子は、何の意味もなくホルマリン漬にされ標本のように扱われたのです。その数は全国で115体といわれています。栗生楽泉園では26体が確認されています。

2007年、こうした堕胎児が慰霊され、併せて建立されたのが「命カエシテの碑」です。左の画像をクリックするの背後の文面が表示されます。

 

●入所者数の推移

年度

入所者数(人)

昭和 7年 3
昭和10年 95
昭和15年 971
昭和20年 1313
昭和25年 1045
昭和30年 1060
昭和35年 992
昭和40年 909
昭和45年 804
昭和50年 760
昭和55年 682
昭和60年 574
平成元年 490
平成 5年 433
平成10年 327
平成15年 236
平成20年 159
平成25年 100
平成26年9月 96
   
   

(国立療養所栗生楽泉園 より)

 

●太平洋戦争後

 太平洋戦争が終わり、1947年ごろから使われ始めた新薬プロミンが、ハンセン病治療に画期的な効果をもたらしました。しかし病気は治っても、社会(政府を含めて)の偏見差別までは解消できず、元患者たちにとっては辛く苦しい日々が続きました。それを象徴する事件が「藤本事件」や「竜田寮児童通学拒否事件」です。

そして明治以降の国の誤った政策に対し、1998年、元患者たちが起こした訴訟が「らい予防法違憲国家賠償請求訴訟(国賠訴訟)」です。2001年に患者側の全面勝訴となり、当時の内閣総理大臣小泉純一郎、厚生労働大臣坂口力、衆議院・参議院から、謝罪決議が出ました。

 しかし訴訟に勝利しても、2003年熊本県の温泉地で起きた元患者宿泊拒否事件のように偏見・差別は依然として残っています。2016年には患者だけではなく、家族も偏見・差別を受けたことに対し国に責任を問い、損害賠償と謝罪を求める訴訟が提起されました。一方で、元患者が起こしたとされる「藤本事件(菊池事件」では、最高裁による隔離法廷の違法性についての検証がはじまっています。

日本におけるハンセン病と患者(元患者)たちの歴史は、古くて新しく、また人権とは何かの問題を私たちに問いかけているのです。

※太平洋戦争後の出来事につきましては、本ホームページの日本におけるハンセン病の歴史(太平洋戦争後)をご覧ください。

(参考資料)

風雪の紋(栗生楽泉園患者自治会)、栗生楽泉園ガイドブック(栗生楽泉園入所者自治会)、国立療養所栗生楽泉園

※栗生楽泉園患者自治会と栗生楽泉園入所者自治会は、いずれも資料のとおりに記載しました。


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