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日本におけるハンセン病の歴史(明治時代以降)


●らい菌の発見

 1873(明治6)年にノルウェーのアルマウェル・ハンセンにより「らい菌」が発見され、遺伝病ではなく伝染病であることがわかりました。しかもその後の研究で伝染病といっても感染力はきわめて弱く、極端に栄養状態が悪いとか、体力が衰えていないかぎり感染しても発病しないことも判明しました。

それ以前、ハンセン病は業病(前世の報いでかかる病気)、天刑病(神仏のタタリでかかる病気)、あるいは遺伝病と考えられていた時期がありました。遺伝病と考えられたのは両親のうち、片方がかかっても他方にはうつらず子供が発病するなど、同一の家族内で発病することがあったためです。

そのような風潮の中、一旦ハンセン病になった人は僻地でひっそり暮らしたり、「浮浪らい」として各地を放浪する人も多くいました。そんな人達は物乞いと神仏にすがるため大きな寺社の周辺にたむろするようになり、自然と大衆の目にさらされるようになっていたのです。

 時代は明治になり「近代国家」としての体面を重視する政府は、それまで各県ごとにバラバラだった貧民救済方法を国家指導にすべく恤救規則(じゅっきゅうきそく)として法令化しました(1872年)。1931年まで存続したこの法令は貧民救済という目的があったものの、県ごとの政策では政府の仁慈が国民に伝わらないこと、徴兵・課税の効率化という面も持っていました。

救済対象者は極貧者、老衰者、廃疾者、孤児等で、救済方法は米代を支給したとされますが、その範囲は非常に狭く対象者のごく一部しか救済されませんでした。それに加え近代医学がようやく研究されはじめた当時の日本では、伝染病対策は患者を隔離し、その住居(住む家があれば)の徹底消毒、持ち物の焼却以外方法がなかったのも事実で、浮浪者は病原菌を広めるものとして救済よりも取締りの対象となりました。浮浪らいの人も同じでした。

 来日する外国人が多くなった1891年。イギリス人宣教師ハンナ・リデル(1855〜1932)は、熊本県の本妙寺で見た浮浪らいの姿に衝撃を受け、姪のエダ・ライト(1870〜1950)とともに英国、日本の教会、政財界などに寄附を募り創設したのが熊本回春病院です。1941年に病院は閉鎖され病棟は取り壊されましたが、研究所だけは残され、戦後は養老院の事務所として使用されました。熊本回春病院は日本初のハンセン病療養所ではなく、それ以前には1875(明治8)年に起廃院、1886(明治19)年には神山復生病院がありましたが、いずれも行政側ではなく医師や来日宣教師による設立でした。

 

ハンナ・リデル エダ・ライト 回春病院研究所

 

●癩予防法

 1897年にベルリンで開催された第一回らい国際会議で、つぎのような項目が決議されました。ハンセンが称えた「らい病は伝染病説」は世界の学会ではなかなか受け入れられませんでしたが、この会議でようやく伝染病として承認されたのです。

 
らい菌は真の病原である
生活条件と人体内への侵入経路は不明。恐らく人に対する侵入門戸は口腔及び鼻腔粘膜である
らいは伝染病であって遺伝病ではない。社会的関係が悪ければ悪い程周囲に対する危険性が大である
らいは今日までこれを癒すあらゆ る努力に抵抗した。従ってらい患者の隔離は、特に本疾患が地方病的或は流行病的に存在する地方では望ましい。ノルウェーにおいて隔離によって得られた結果はこの方法の徹底を物語るものである。ノルウェーと似た関係の場合にはらい患者の隔離は法律的の強制において遂行すべきである。

 この中の第4項は、その後の日本におけるらい対策を決定づけました。
1907(明治40)年に制定された 「癩予防ニ関スル件」は、 「浮浪らい」や元患者を、ハンセン病療養所に入所させるための法律で、医師には患者診断時の行政官庁への届出を義務づけ、救護者のいない患者を収容させる施設の設置が定められています。

 


全国癩患者概数表 (単位:人)

神社・仏閣付近で徘徊する者(浮浪らい)  37,431
住居はあるが、療養の資力にない者  6,877
多くの患者がいる村落 985
上の戸数 130,187
上の人口 675,884
上の患者数 4,518
患者がいる家の数 3,799
患者がいる家の人数 18,592
(注) 実際のデータは都道府県別になっていますが、ここでは
全国の合計値を記載しました)
 ハンセン病が伝染病と判明したとはいえ、当時は依然として血筋・家筋による遺伝の病気という迷信が根強く残っていました。このため政府や新聞は、遺伝病であることを打ち消すためこのような法律をつくり、意識的に「恐ろしい伝染病」として社会の恐怖心を煽ってきたのです。

(注意)
ハンセン病にかかりやすい人は、重い病気などで体力が極端に低下している人、栄養状態が悪い人などですが、家族が罹患している場合、乳幼児も罹患することがあり、それも遺伝病と考えられた理由の一つになっています。

 左の表は、1905(明治38)年の政府による全国ハンセン病患者数調査の結果で、概数とはいえ全国で実に37431名の浮浪らいがいたことがわかります。日本政府は、こうした浮浪らいが外国人の目に触れることを国の恥と考え、患者の治療よりこれを隔離して「くさいものにはふた」の政策を採りました。

 しかし対象者が浮浪らいに限られていたため、療養所の入所者数はハンセン病患者全体の5%程度であったといわれます。
この「癩予防ニ関スル件」に基づき、全国で5ヵ所に公立療養所(左下図)が建てられ、患者を隔離する政策がスタートしました。

 

 1931(昭和6)年に制定された「癩予防法」は「癩予防ニ関スル件」を作り直した法律で、これにより日本中のすべてのハンセン病患者が、浮浪・在宅に関係なく療養所に隔離できるようになりました。しかし癩予防とは名目に過ぎず、患者の救済ではなく、社会からの根絶が目的だったのです。そしてこの法律と併せて行われた「無らい県運動」により、すべてのハンセン病に対して「強制隔離によるハンセン病絶滅政策」が実施されていったのです。

●無らい県運動

 日本の隔離政策は、戦前から欧米諸国のハンセン病対策とは大きく乖離していました。
1930年代以降の戦争に突入していく時代、政府は国際動向に関心を持たず、人口を増やし健康な国民や兵隊を育成するいわゆる健民健兵政策と並行してハンセン病予防政策がおこなわれました。癩予防法や「無らい県運動」を通じ、国民に一旦ハンセン病に罹患したならば隔離以外方法はないとの雰囲気を作っていったのです。

無らい県運動のはじまりは1930(昭和5)年以降とされています。
これはハンセン病患者を摘発し、強制収容させて県内から患者を一掃しようとする全国規模の運動で、一旦患者と認定されれば当人は警察官、保健所所員の立会いの下であたかも犯罪人のように追い立てられ、トラックに乗せられて各地の療養所に収容されました。(左の画像)

患者を出した家は家中真っ白になるほどの消毒薬が散布されました。
その様子が世間(社会)に対して、ハンセン病
は恐ろしい病気として今直消えない偏見差別を一層増幅する原因となりました。 残された家族は社会の偏見・差別から娘は婚家から離縁され、就職先からは解雇される、世間の白眼視に耐えかねて夜逃げ、一家心中も頻繁に起きるようになったのです。


●小島の春

 余談になりますが、長島愛生園に勤務し光田健輔の指導を受けた小川 正子(1902〜1943)手記「小島の春」は、ハンセン病への対応は別として、文学的価値からベストセラーになりました。それを映画化したのが本作品です。
映画は大ヒットし、小川正子は偶像化され「小島の春現象」という造語まで作られました。しかしこの作品は、強制隔離を推進するプロパガンダでもありました。

公開 1940年(昭和15年)
原作 小川正子
監督 豊田四郎
脚本 八木保太郎
主演 夏川静江

右側の映画広告には「これこそ女性の愛と真実の姿−人間愛に生き抜く女医の第一線勇士にもおとらない涙と感激の生活」と書かれています。

 

1909年当時のハンセン病療養所

 

   第1区全生病院 (現 多摩全生園 東京都)
  第2区北部保養院 (現 松丘保養院 青森県)
  第3区外島保養院 (現 邑久光明院 大阪府)
  第4区療養所(現 大島青松園 香川県)
  第5区九州癩療養所(現 菊池恵楓園 熊本県)

 それまでもハンセン病患者に対する偏見・差別はありましたが、これほどではなく、例えば温泉で有名な群馬県の草津温泉では健常人と患者(湯治客)が一つにの温泉に浸かることもめずらしくはなかったのです。

 無らい県運動は、政府と各県、自治体だけが推進したのではありません。
藤楓協会(渋沢栄一が設立した財団法人らい予防協会)、愛国婦人会、新聞社(無癩県運動を府県同士の対抗戦として報道したところもあった)、宗教団体(真宗大谷派、日本MTL(キリスト教による救癩団体)等)でした。また、当時すでにハンセン病に隔離は必要なく、在宅で充分治療が可能という世界的な認識があったにも関わらず、多くの医師等が運動の先頭に立ったのです。

(注)1996年、真宗大谷派が無らい県運動の推進を謝罪し、2001年(平成13年)5月11日のらい予防法違憲国家賠償訴訟判決後、都道府県知事はハンセン病療養所を訪問して入所者に謝罪しましたが、元患者たちの失われた時間は帰ってきません。

 さらに当時の小学校では、学校側は警察や保健所と一体になって無らい県運動を推進しました。
健康診断でハンセン病の生徒が見つかれば保健所に通報し、残された兄弟姉妹が差別されても教師は見て見ぬふりをしました。教育者も差別に加担してきたのです。
そして一旦療養所に入れられた患者には過酷な現実が待っていました。


●療養所にて

 次の資料は、全生病院(現 多摩全生園 東京都東村山市)に強制収容された患者の証言の一部です。(東村山市ハンセン病資料館掲示資料より。誤字がありますが、掲示のとおりに記載しました)

5人の人達は否応なしに入園させられたのですが、その翌日の新聞記事には驚くではありませんか、私達の住所、姓名まで明記して掲載されていました。私の妹など会社に努めていたのでしたが、そのことが知れると会社にも努められなくなってしまいました。その取り扱いが、まるで犯罪人を狩り立てているようで社会に対する憤りは消えません。

(福岡県 女 24才 入所昭和23年)

中央 私が癩を患ったという理由で、父は村役場勤務を辞めさせられ、姉も小学校を退学させられた。

(大分県 女 18才 入所昭和21年)

(前略)それに困ったのは娘が同村の医者に嫁いでいるのですが、私の病気が知れてから嫁ぎ先の親達から苦情が持ち上がり、別れ話さえ持ち上がるようになりました。何とかして悲境に泣かせたくなく努力してきたのでありまして、どうにか別れ話とまではゆきませんでしたが、娘の肩身狭い思いを忍ぶとやりきれない気持ちであります。

(大分県 男 46才 入所昭和25年)

●懲戒検束

 1907年 「癩予防ニ関スル件」が制定されると療養所に収容される患者が増えましたが、各施設では警察官あがりの職員が巡回して患者の動静を監視し、所内の秩序維持という名目の暴力がまかり通っていました。のために、ほとんどの施設で集団的な抵抗が起き、暴力沙汰、逃亡者があとを絶たなかったと いいます。これに対して国は、態勢の不備を改めるのではなく、力で押さえ込む方法を選びました。

 そのために作られた「監房」とは療養所内の監獄なのです。
患者を患者を監房に送る権限は
懲戒検束権といい、1916年(大正5)年、法律の改正により各療養所の所長に付与されました。

1916(大正5)年3月、「癩予防ニ関スル件」が改正されると、その中には「療養所ノ長ハ命令ノ定ムル所ニ依リ被救護者ニ対シ必要ナル懲戒又ハ検束ヲ加フルコトヲ得」の条項が加えられ、さらに6月には同法の施行規則を変え、懲戒検束の内容を次のように定めました。

   ・譴責
   ・30日以内の謹慎
   ・7日以内常食糧2分の1までの減食
   ・30日以内の監禁
   ・謹慎、監禁と減食を同時に科すことができる、監禁は2か月まで延長できる。

 1931年「癩予防法」が制定されると各療養所の「懲戒検束施行規則」は、内務省認可の「国立療養所患者懲戒検束規定」として明文化され園からの逃走、博打、飲酒、暴力行為、窃盗等はもちろんのこと所内の秩序を乱す者も監房行きでした。「秩序を乱す」とは、職員の気分次第でどうとでも解釈できるものです。

 この懲戒検束権が恣意的に悪用されたのが栗生楽泉園(群馬県草津)の「重監房」で、冬季にはマイナス20度、また減食という厳罰が行われたりするなど、過酷な条件のため多数の死亡者が続出しました。各地の療養所でしばしば規則に違反し、職員ももてあます患者(規則違反の解釈は職員の気分次第のところが多かった)でも「草津で頭を冷やすか」といわれればふるえ上がったといわれます。

 無らい県運動の高まりにより、強制収容者の増加とともに各療養所は定員オーバーとなり、食料事情などの環境は劣悪になっていきました。また人員不足を理由に、収容者には低賃金で園の維持に必要な様々な労働に従事させたのです。重症患者を介護するのは軽症の患者でした。待遇に反抗すれば「監房」行きでした。

●絶対隔離の推進

 話はやや戻りますが、1914(大正3)年、公立癩療養所全生病院(現 多摩全生園)院長に就任した医師光田健輔(1876〜1964)は、ドイツのある村で1870年には1人だった患者が27年後には20人に増加し、ドイツ政府は療養所を作り患者を隔離したという報告から、隔離こそハンセン病対策に最も有効と確信するようになりました。
以後ハンセン病研究者として発言力を強めていった光田は「日本は世界一のらい国」であり、「ハンセン病は恐るべき伝染病である」と主張して、小笠原登(※1)のようにこれに反対する医師等を封じ込め、1930年ごろにはすでに欧米諸国では患者を隔離する政策を廃止しつつあることを知りながら絶対隔離(※2)を推進していきました。

1949年6月27日、青森県松丘保養院で開催された会議で、政府側の「療養所の病床数が少ないので、外見がよくて菌陰性の者を退所させたらどうか」と質問に対し、光田は「そんなことは絶対させない。増床して国内の患者を一掃すべきである」とまでいったのです。

また光田は、療養所内での患者の結婚の条件として男には断種(※3)を強要し、それでも万一女が妊娠した時は堕胎を強制しました。堕胎された子は、医学的に何ら意味もなく標本としてホルマリン漬けにされたのです。

2005年6月8日付の新聞東奥日報の記事。

 誤った国の隔離政策の原因を追及した第三者機関「ハンセン病問題検証会議」が1月、国立感染症研究所ハンセン病研究センターと療養所の計6施設で114体の胎児標本が存在する、と公表。発見されなかった療養所でも過去に存在したとされる。29体は妊娠8カ月をすぎ、うち16体は9カ月以後のため、妊娠中絶ではなく出産後に療養所職員らに殺された可能性が高い。検証会議は「医学的常識を著しく逸脱しており、生命の尊厳をいたく冒涜(ぼうとく)するもの」と医師ら関係者を断罪した。胎児以外にも、入所者が死亡後に解剖された2千体以上もの標本が見つかった。

 

※1 小笠原登     1888年(明治21年)7月10日 - 1970年(昭和45年)12月12日)は日本の医学者(専攻は皮膚科学)でハンセン病(らい病)の研究者。元京都帝国大学助教授。愛知県出身。京都帝国大学医学部卒業後、同大学医学部の皮膚科特別研究室助教授となり、1948年まで在職した。彼はハンセン病の発病は体質を重視すべきことや不治ではないことを主張し、当時行われていた患者の強制隔離・断種に反対したが学会から葬り去られる結果となった。(Wikipediaより)
※2 絶対隔離 

一旦収容した患者を死ぬまで出さないことで、これに対して相対隔離とは治れば出す方法。ハンセン病で絶対隔離を政策として実施したのは世界で日本だけである。

※3 断種 俗にいうパイプカット。男性の輸精管を切断して生殖能力をなくす手術。1940年に公布された「国民優生法」で、遺伝性とみなされた病者・障害者に対し実施され、人間差別の優生主義の趣旨は1948年に公布された「優生保護法」に受け継がれた。ハンセン病は感染症であり、遺伝ではない。しかし患者への断種手術は、非合法に実施されていた。断種は、その後1996年に「らい予防法」が廃止されるまで「合法」だった。

 


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