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重監房


●特別病室

 かつて栗生楽泉園には、特別病室という名の懲罰房(重監房)がありました。
園に対して反抗的な患者、あるいは理由にもならない理由で投獄するための懲罰房でした。ここに投獄された患者は93人(のべ人数)。内23人がここで亡くなったといわれています。

 

重監房跡 跡地に立つ重監房の石碑

 

 1931年4(昭和6年)に制定された「癩予防法」とそれに基づく「無らい県運動」は、ハンセン病患者の救済ではなく撲滅を目的とし、各地の療養所に強制収容させるものでした。
1914年(大正3年)、東京の第1区連合府県立全生病院(現在の多摩全生園)の院長として就任した光田健輔(1876〜1964)は、翌1915年には国に対し、患者懲戒検束権を要求。各療養所には監禁所がつくられ、入所者は所長の一存でいつでも投獄されるようになりました。

所内監禁所

 その後の「癩予防法」の施行と「無らい県運動」の高まりで、各療養所の収容者は急激に増え、長島愛生園(岡山県)園長として赴任した光田は無らい県運動を大いに扇動し、その結果1935年(昭和10年)には90人の定員に対し1163人が収容されたといいます。
さらに光田の入所者弾圧はつづき、ついには入所者による光田排斥の運動が起こりました(長島事件)。
これにおびえた光田は、内務省・司法省(当時)に不穏分子取締りのために「特殊監禁所」の設置を要求。これを受けて1938年、栗生楽泉園に「特別病室」という特殊施設が設置されました。

この施設は病室とは名ばかりで、診察が行われた形跡は一切なく、「不穏分子」を閉じ込める懲罰房だったのです。やがて誰がいうともなく、この特別病室は「重監房」と呼ばれるようになりました。

《重監房見取り図》

上からの見取り図

(国立ハンセン病栗生楽泉園ガイドブック/栗生楽泉園入所者自治会編より)

 

《復元された重監房》

実物大に復元された一室

室内の様子
この薄い布団しか与えられなかった

トイレ

採光はこの窓からだけ

重監房資料館 展示物より

 

●四地獄

 草津の真冬は時には零下10℃にもなるにも関らず、与えられた「暖房具」は薄い布団のみ。部屋の周囲は高さ4mの壁で、採光は天井近くにある縦13cm、横70cmほどの四角い窓があるだけでした(上の写真参考)。
食事も、採光窓と同じような枠が床近くの壁に空いていて、運搬人(患者作業)がそこから差し入ていました。運搬人との会話も許されず(看守の見張り付き)、その食事も朝晩二回。木の箱に入れられた握り飯1個ほどの量の麦飯に朝は梅干1粒、薄い味噌汁と水が1椀づつ。晩は同じく麦飯にたくあん3切れと水1椀だけ。

ここはまさに孤独・闇・飢餓・酷寒の四地獄だったのです。
その様子は他の療養所の入所者にも知られ、問題を起こしたとされる患者は、職員から「草津へ行って頭を冷やすか?」といわれるとふるえ上がったと言われます。

●社会に知れわたる

 1947年(昭和22年)8月、参議院群馬地方区補欠選挙があり、栗生楽泉園を訪れた立候補者がその存在を知り、自治会は重監房撤廃の入所者総決起大会を開きます。
同月26日、毎日新聞に「最も悲惨なるもの」と題して栗生楽泉園患者の生活改善を訴える投書が、また上毛新聞(群馬県の地元の新聞)にも「あばかれた栗生楽泉園」という記事が掲載されました。これ衆議院厚生委員会でも採りあげられ、調査団が来所することになります。

●重監房復元

 こうして少しづつではありましたが、ハンセン病患者の各療養所における「実態」が、社会に知られるようになっていきました。
しかし1953年(昭和28年)、国の隔離政策の象徴ともいえる重監房は、入所者も知らないうちに突然取り壊されました。国による証拠隠滅と、入所者は考えています。

2001年、ハンセン病国賠訴訟の熊本地裁判決が確定した後、関係するいくつかの法律が制定されましたが、その中で撤去された重監房の復元に関係する法律は、2009年(平成21年)に施行されたハンセン病問題の解決の促進に関する法律(ハンセン病問題基本法)です。

この法律は、ハンセン病問題の解決のために基本理念を定めるとともに、国及び地方公共団体の責務の明確化、ハンセン病問題の解決の促進に必要な事項を定める法律です。この法律が、現在条文どおりに実施されているか否かは別として、その第四章第十八条は、次のとおりです。

第四章 名誉の回復及び死没者の追悼

第十八条 国は、ハンセン病の患者であった者等の名誉の回復を図るため、国立のハンセン病資料館の設置、歴史的建造物の保存等ハンセン病及びハンセン病対策の歴史に関する正しい知識の普及啓発その他必要な措置を講ずるとともに、死没者に対する追悼の意を表するため、国立ハンセン病療養所等において収蔵している死没者の焼骨に係る改葬費の遺族への支給その他必要な措置を講ずるものとする

この重監房復元にあたってもっとも尽力したのは、国賠訴訟で東日本原告団団長として訴訟の先頭に立った谺雄二(こだま ゆうじ)です。

●谺雄二の悲願

 東京の下町で生れた谺雄二(こだま ゆうじ 1932〜2014)は、7歳でハンセン病を発症。すでに発症して入園していた母のいる多摩全生園に、少し遅れて発症した兄とともに入園。19歳で栗生楽泉園に転園しました。文筆家としても知られ、膨大な著作物がありますが、元患者の中心として生涯をハンセン病への偏見・差別と闘ってきました。
その谺の悲願の一つが、重監房の復元でした。

重監房は、国のハンセン病患者へ対する誤った政策、偏見差別、人権無視の象徴で、その復元を求める声は次第に高まってきました。しかし元患者たちの懇願にもかかわらず、動かない国(厚生労働省)に対し、谺は署名活動を展開。わずかな期間で107,101筆にもおよぶ署名を得て、2004年6月、厚生労働省に提出したのです。

《群馬県・高崎駅前での訴え》

高校生を中心に、
若者が積極的に署名してくれた

中央に座っているのが谺雄二

支援者と共にのぼり旗を立てて行進

 

 その後の運動で、2007年には厚生労働省は、「歴史的建造物の保存」として重監房を優先課題とすることを確約し、2009年施行されたハンセン病問題基本法(上記)によって法的根拠を得ることができました。そして2010年には「平成24年の工事着工をめざし、23年度に基本計画・設計費用の予算確保をする」との確約を得たのです。

ようやく重い腰を上げた厚生労働省により、重監房跡地の発掘調査が行われたのは、2013年(平成25年)8月6日からでした。のべ45日間の調査での出土品の中には食器やガラス瓶などもあり、看守の目を盗んだ食事運搬人の差し入れと思われます。

このような重監房や、ハンセン病患者が辿った記録を残すべく設置されたのが、重監房資料館です。
開館は2014年4月30日(一般公開は翌5月1日)。

病床にあった谺雄二は、その開館式に出席。資料館の完成を見届けて、翌月11日にこの世を去りました。
資料館には開館以来、国内はもとより海外も含め多くの見学者が訪れています。

発掘調査 出土品の一部 重監房資料館

 

重監房資料館 ホームページ http://sjpm.hansen-dis.jp/


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