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日本におけるハンセン病の歴史(太平洋戦争後)


●プロミンの登場

 1937年、アメリカで結核の治療用にすでに開発されていたグルコスルホンナトリウム(商品名 プロミン)が、1943年になってハンセン病にも有効であることがわかり、その画期的な効果が知られるようになりました。当時は太平洋戦争中だったため、日本での治療に使われだしたのは1947年ごろのことです。(現在ではさらに効果的で経口薬である 多剤併用療法(MDT)という方法が採られています)

この新薬でハンセン病の完全治癒が可能となり無らい県運動は終息に向かうかに見えましたが、政府や社会の意識はそれほどの変化はありませんでした。
1947(昭和22)年11月、厚生省は各都道府県知事あてに「無らい方策実施に関する件」を通知し、「らいの予防撲滅は文化国家建設途上の基本となる重要事にして今一段の努力に依って無らい国家建設の成果を挙げ得る段階にある」として、「各都道府県において既知の未収容者患者を感染の危険の大きいものから順次入所せしめる」としました。

さらに1949年(昭和24)年には、厚生省は予防事業を強力かつ徹底的に実施するように求め、診断技術の講習会実施、戦時中に中断していた一斉検診の復活、らい患者および容疑者の名簿の作成、患者の収容、および療養所退所者の指導、一時救護の徹底などを指示しています。
このような中で起きたのが藤本(菊池)事件や竜田寮児童通学拒否事件です。

●藤本事件(菊池事件)

《事件の経緯》

 1951年8月1日、熊本県菊池郡水源村(現 菊池市)の村役場衛生主任の自宅にダイナマイトが投げ込まれる事件が起こりました。ダイナマイト自体は完全には爆発しなかったものの、この職員とその子供が軽傷を負いました。捜査の結果、警察は同村の藤本松夫(当時29)を容疑者と断定し逮捕しました。
当時藤本は、ハンセン病に罹患しているとして国立療養所菊池恵楓園への入所を勧告されていましたが、この勧告を被害者の通報によるものと逆恨みしての犯行とされたのです。

逮捕後、藤本は恵楓園内の熊本刑務所代用留置所(外監房)に勾留され、裁判は出張裁判という形で菊池恵楓園で行われました。裁判ではダイナマイトの入手先は解明されず1952年6月9日。熊本地方裁判所は藤本に対して、殺人未遂と火薬類取締法違反で懲役10年の有罪判決を下しました。

その直後1952年6月16日、藤本は恵楓園内の拘置所から脱獄。3週間後の7月7日、村の山道でダイナマイト事件の被害者職員が全身20数箇所を刺され惨殺されているのが発見されました。さらにその6日後、警官や村人らの山狩りで発見された藤本は、逃げる際に拳銃で撃たれ、再び逮捕されました。

 藤本は逃走罪及び殺人罪で追起訴されました。公判はやはり熊本地裁菊池恵楓園出張法廷で行われました。検察はこの犯行を「執拗に殺害を計画し、1回目は失敗したが、2回目は復讐に燃えた計画的犯行」であるとしました。1953年8月29日に熊本地裁は藤本に死刑を宣告。藤本は控訴・上告したが、1957年8月23日に最高裁が上告を棄却し死刑が確定ししました。

刑確定後も藤本は通常の刑務所や拘置所に移送されることなく、恵楓園内の菊池医療刑務支所に収容されたまま3度の再審請求を行いましたが、いずれも棄却されました。1962年9月14日午前中、藤本は福岡拘置所へ移送となり、同日午後1時ごろ死刑が執行されたのです。


《偏見差別に満ちた裁判》

 当時、すでにハンセン病の伝染性の低さや新薬プロミンの有効性が認知されていたにも関わらず、法の番人ですら世間一般の偏見・差別意識を持っていました。。その偏見・差別意識は次のようなものです。

1.伝染を恐れ、公判は裁判所ではなく、国立療養所など外部でおこなわれた(特別法廷)

2.裁判官、検察官は消毒液が入った木箱に足を入れてから入廷。白衣、手袋、長靴を着けていた

3.検察は証拠物件を取るのに直接手指は使わず、火箸で取り上げた

4.判決文には、ハンセン病と判明した以上おとなしく療養に専念すべき立場でありながら、自分を行政当局に通報した職員を逆恨みしての犯行とした

《再検証》

 この事件は当初から様々な疑問が提示され、冤罪との見方が有力で、2005年日弁連法務研究財団は、国の委託を受けた調査の報告書で「手続的保障が十分に尽くされ(ていた事件かという視野に立った場合、藤本事件は、到底、憲法的な要求を満たした裁判であったとはいえないだろう」と指摘しています。

ハンセン病患者に対する法廷は、療養所に設けた特別法廷で実施されました。特別法廷とは、災害などで裁判所が使えない場合、最高裁の判断で裁判所外で拓かれる法廷のことです。

特別法廷は1948年から77年までに113件が開かれており、その内ハンセン病患者に対する裁判は95件。その比率は84%という高さで、裁判官、検察官、弁護士も白い帽子、マスク、長靴と、感染予防(すでに、らい菌の感染力は非常に弱いことが判明していたのにもかかわらず)の身支度でした。

ハンセン病の特別法廷(隔離法廷)は、療養所そのものが隔離されているため傍聴者もおらず、元患者側から「裁判の公開の原則に反し、傍聴者もなく設置の判断理由も明らかではない」と批判されていました。

2013年、ハンセン病の特別法廷は差別的な手続きであり、憲法違反の可能性があるとして最高裁が調査委員会を設けて検証を開始し、2016年4月には「遅くとも1960年以降は裁判所法に反していた」と認め謝罪しました。しかし違憲であるとの明言は避けていました。

2017年3月には検察は特別法廷への関与を謝罪しましたが、再審請求は拒否。藤本の遺族も社会の偏見差別を恐れて再審請求ができなかったため、国立ハンセン病療養所菊池恵楓園入所者自治会長の志村康(当時84)を中心に元患者たちが再審を請求したのです。

2020年2月、熊本地裁では「特別法廷は法の下の平等を定めた憲法に違反すると」指摘し、違憲であったことを認めました。これについて弁護団の代表徳田靖之弁護士は「最高裁の報告書に反する判断をするのは下級審の裁判官にとって勇気がいることだ」と評価。

しかし、その一方で地裁側は、判決は「憲法違反が有罪判決に影響を及ぼすかという観点から慎重に検討しなければならない」との判断基準を提示。その上で菊池事件の審理が法の下の平等に違反し、非公開だった疑いがあっても「直ちに事実認定に影響を及ぼす手続き違反とは言えない」と原告側の再審請求を退けました。

●菊池事件をめぐる主な経緯
1951年 ・熊本県が男性(藤本)に恵楓園に入所を勧告
・熊本県北部(現 菊池市)の民家でダイナマイトが爆発。被害男性と子供がけが。
1952年  6月

7月

熊本地裁は男性に懲役10年の判決。
被害男性の遺体が見つかる。逃亡していた男性が殺人容疑で逮捕される。
1953年  8月 ・らい予防法施行
・熊本地裁は男性に死刑判決を言い渡す。再審請求は退けられ57年に確定。
1962年  9月 死刑が執行される
1996年  4月 らい予防廃止法施行
2001年  5月 ハンセン病国賠訴訟で元患者が勝訴
2012年11月 元患者が検察に再審請求
2016年  4月 最高裁が特別法廷について謝罪
2017年  3月

8月

検察が特別法廷への関与を謝罪。再審請求は拒否する。
元患者6人が菊池事件の国賠訴訟提訴
2019年  6月 ハンセン病家族訴訟で熊本地裁は国の責任を認める判決を言い渡す
2020年  2月 ・熊本地裁は菊池事件の特別法廷を違憲と認める判決を言い渡す
・再審請求は退けられる

 

1950年ごろ、菊池恵楓園で開かれた特別法廷。
藤本事件の法廷ではありません)

 

●竜田寮児童通学拒否事件

 1954年4月8日、菊地恵楓園(熊本市)にある竜田寮(入所者の子供が生活する施設)の児童4人が、地元の黒髪小学校に通学することに一部のPTAの間から反対の声があがりました。その代表は医師で、しかも県議会の議長でありながら反対派だったのです。
恵楓園以外の療養所の児童はすでに小中学校へ通学していて、最後に残ったのは恵楓園の児童だけという状況でした。

 

通学反対派が黒髪小学校校門に貼ったビラ

ライの子供と一緒に勉強しないよう
しばらくがっこうをやすみましょう(左のビラ)

 反対派はピケをはって児童1900人中8割以上を休校させ、寺などで自習させたため、熊本市教育委員会が調停に乗り出し、結果として恵楓園の児童4人は再検査をさせられ(それ自体明確な人権侵害)、全員陰性となったものの「別の皮膚病を持っている」と された1人は竜田寮に戻され、他の3人が通学することになりました。市の教育委員会の会議で出席した熊本商科大学長が児童3人を自宅に引き取り、そこから通学させるという条件がつきました。

 通学反対派と賛成派の対立はその後も続き、通学賛成派のPTA役員が反対派に石を投げつけられたり、賛成派による集会に反対派が殴りこみ講師が負傷する事件も起きました。この事件は、ハンセン病への偏見差別がいかに社会に深くしみこんでいるか、その根深さを浮き彫りにしたものです。


●国賠訴訟

 新薬プロミンの効果に明るい希望を与えられた患者たちは、政府に癩予防法の改正を要求。
1953年(昭和28年)、癩予防法は「らい予防法」として施行されました。
しかし「癩予防法」が「らい予防法」と変わっただけで、強制隔離や懲戒検束権などはそのまま残り、患者の社会で働くことの禁止、「汚染場所」の消毒、療養所入所者の外出禁止など、人権侵害の本質は変わってはいなかったのです。この法律は1996年(平成7年)に廃止されるまで、実に40年以上にもわたって入所者、元患者たちを苦しめました。
こうしたらい予防法が憲法に違反するとして提起した賠償訴訟が、らい予防法違憲国家賠償請求訴訟(以下、国賠訴訟)です。

 1996(平成8)年、国は89年間継続した「らい予防法」を廃止し、「らい予防法の廃止に関する法律」を制定しました。ここには、「らい予防法」を廃止することと、ハンセン病療養所の入所者に対して、現在、国が行っている医療・福祉・生活の保障をこれからも維持・継続することが明記されています。
しかし「らい予防法」は廃止されたものの、それ以降も隔離政策の誤りに対する謝罪は一切なく、入所者の社会復帰に関して、ほとんど施策らしきものが実施されていない状況がつづいていました。

 このため、国に対し不信を抱いた13人の元患者たちが、1998年(平成10年)、「らい予防法」の違憲性を問う「らい予防法違憲国家賠償請求訴訟」(ハンセン病国賠訴訟)を熊本地方裁判所に提訴しました。訴訟は東京地裁(東日本訴訟)、岡山地裁(瀬戸内訴訟)へと拡大し、最終的には、2,322人が3か所の訴訟に参加しました。この時、東日本原告団団長として訴訟の先頭に立ったのが谺雄二(こだま ゆうじ 1932〜2013)です。

谺によれば、訴訟を起こすには大きな不安があったといいます。

理由は故郷の家族です。つまり自分たちが裁判を起こせば、そのことがマスコミによって報道される。そうしたなかで、もしも自分の名前が出たりしたら、国の手でいっそう醜くつくりあげられたこの病気への根強い偏見ゆえ、今なおソッと生きている故郷の家族が、再び世間の白い目にさらされ、またしても差別を受けるのでは、という心配があるからです。(谺雄二による意見陳述書より)

 2001年(平成13年)5月11日。原告全面勝訴の判決が出されました。
判決は、らい予防法は日本国憲法に明らかに違反すること、遅くとも1960年(昭和35年)以降は厚生大臣の患者隔離政策、1965年(昭和40年)以降は国会議員の立法不作為が、いずれも違法且つ有責であって不法行為が成立するとして、すべての患者に対して、隔離と差別によって取り返すことのできない極めて深刻な人生被害を与えたと認定しました。

谺は、「私たちはようやく長く暗いトンネルを抜け出て、人間の空を取り戻しつつあります」とコメントしました。

 

控訴しないように訴える原告団 勝訴となり、仲間と抱き合って喜ぶ谺雄二(手前右)

つづいて原告団は、国に控訴しないよう要求。控訴すべき正当な理由がない国はこれを断念し、判決が確定したのです。

《謝罪と決議》

○小泉純一郎内閣総理大臣

 去る5月11日の熊本地方裁判所におけるハンセン病国家賠償請求訴訟について、私は、ハンセン病対策の歴史と、患者・元患者の皆さんが強いられてきた幾多の苦痛と苦難に思いを致し、極めて異例の判断ではありますが、敢えて控訴を行わない旨の決定をいたしました。今回の判断に当たって、私は、内閣総理大臣として、また現代に生きる一人の人間として、長い歴史の中で患者・元患者の皆さんが経験してきた様々な苦しみにどのように応えていくことができるのか、名誉回復をどのようにして実現できるのか、真剣に考えてまいりました。

 我が国においてかつて採られたハンセン病患者に対する施設入所政策が、多くの患者の人権に対する大きな制限、制約となったこと、また、一般社会において極めて厳しい偏見、差別が存在してきた事実を深刻に受け止め、患者・元患者が強いられてきた苦痛と苦難に対し、政府として深く反省し、率直にお詫びを申し上げるとともに、多くの苦しみと無念の中で亡くなられた方々に哀悼の念を捧げるものです。
今回の判決は、ハンセン病問題の重要性を改めて国民に明らかにし、その解決を促した点において高く評価できるものですが、他方で本判決には、国会議員の立法活動に関する判断や民法の解釈など、国政の基本的な在り方にかかわるいくつかの重大な法律上の問題点があり、本来であれば、政府としては、控訴の手続を採り、これらの問題点について上級審の判断を仰ぐこととせざるを得ないところです。

 しかしながら、ハンセン病訴訟は、本件以外にも東京・岡山など多数の訴訟が提起されています。また、全国には数千人に及ぶ訴訟を提起していない患者・元患者の方々もおられます。さらに患者・元患者の方々は既に高齢になっておられます。
こういったことを総合的に考え、ハンセン病問題については、できる限り早期に、そして全面的な解決を図ることが、今最も必要なことであると判断するに至りました。

 このようなことから、政府としては、本判決の法律上の問題点について政府の立場を明らかにする政府声明を発表し、本判決についての控訴は行わず、本件原告の方々のみならず、また各地の訴訟への参加・不参加を問わず、全国の患者・元患者の方々全員を対象とした、以下のような統一的な対応を行うことにより、ハンセン病問題の早期かつ全面的な解決を図ることといたしました。

 今回の判決の認容額を基準として、訴訟への参加・不参加を問わず、全国の患者・元患者全員を対象とした新たな補償を立法措置により講じることとし、このための検討を早急に開始する。
名誉回復及び福祉増進のために可能な限りの措置を講ずる。
具体的には、患者・元患者から要望のある退所者給与金(年金)の創設、ハンセン病資料館の充実、名誉回復のための啓発事業などの施策の実現について早急に検討を進める。患者・元患者の抱えている様々な問題について話し合い、問題の解決を図るための患者・元患者と厚生労働省との間の協議の場を設ける。

 らい予防法が廃止されて5年が経過していますが、過去の歴史は消えるものではありません。
また、患者・元患者の方々の失われた時間も取り戻すことができるものではありませんが、政府としては、ハンセン病問題の解決に向けて全力を尽くす決意であることを、ここで改めて表明いたします。
同時にハンセン病問題を解決していくためには、政府の取組はもとより、国民一人一人がこの問題を真剣に受け止め、過去の歴史に目を向け、将来に向けて努力をしていくことが必要です。 私は、今回の判決を契機に、ハンセン病問題に関する国民の理解が一層深まることを切に希望いたします。

○厚生労働大臣・坂口力による謝罪

 ハンセン病患者・元患者の方々へ心より謝罪いたします。
ハンセン病患者・元患者に対しては、国が「らい予防法」とこれに基づく隔離政策を継続したために、皆様方に耐え難い苦難と苦痛を与え続けてきました。このことに対し心からお詫び申し上げます。
患者・元患者の方々の過ぎ去った人生を取り返すことがかなわない現実の中で、政府としては、患者・元患者の方々の名誉回復等を一所懸命させていただき、その他抱えている様々な問題について早期に解決できるよう努力を重ね、皆様方が生きていてよかったと少しでも思えるようにしていくことが使命であると考えております。
併せて、都道府県をはじめとする各自治体、国民各層におかれては、ハンセン病の病態及びハンセン病患者・元患者の置かれてきた立場を正しくご理解いただき、ハンセン病患者・元患者が地域の中で幸せに暮らしていくことができるようお願いする次第です。

○衆議院と参議院における謝罪決議

ハンセン病問題に関する決議

 去る5月11日の熊本地方裁判所におけるハンセン病国家賠償請求訴訟判決について、政府は控訴しないことを決定した。本院は永年にわたり採られてきたハンセン病患者に対する隔離政策により、多くの患者、元患者が人権上の制限、差別等により受けた苦痛と苦難に対し、深く反省し謝罪の意を表明するとともに、多くの苦しみと無念の中で亡くなられた方々に哀悼の誠を捧げるものである。

 さらに、立法府の責任については、昭和60年の最高裁判所の判決を理解しつつ、ハンセン病問題の早期かつ全面的な解決を図るため、我々は、今回の判決を厳粛に受け止め、隔離政策の継続を許してきた責任を認め、このような不幸を二度と繰り返さないよう、すみやかに患者、元患者に対する名誉回復と救済等の立法措置を講ずることをここに決意する。

政府においても、患者、元患者の方々の今後の生活の安定、ならびにこれまで被った苦痛と苦難に対し、早期かつ全面的な解決を図るよう万全を期するべきである。

右決議する。


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