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国賠訴訟は終わらない(今なお残る偏見と差別)


 2001年5月11日、らい予防法違憲国家賠償請求訴訟(以下、国賠訴訟)は、原告側が勝訴。国は控訴を断念し、判決は確定しました。
勝訴確定後、国(総理大臣、厚生労働大臣など)は正式に謝罪し、同年6月22日「にはハンセン病療養所入所者等に対する補償金の支給等に関する法律」により、療養所の入所期間に応じる補償金が支給されました。

しかし療養所の入所者数が減少していく中での政府は無為無策で、放置しようとの姿勢が見られたため、それを防止するための新しい法律が必要となり、100万筆近い署名を集めて、2008年に制定されたのが、「ハンセン病問題の解決の促進に関する法律」です。法律は、充分とはいえないまでもある程度整備されてきました。とはいえ、それでハンセン病に関る多くの「問題」が解決したわけではなかったのです。

●黒川温泉宿泊拒否

 2003年11月13日。熊本県の黒川温泉にあるホテルで、ハンセン病元患者への宿泊を、「他の客への迷惑」を理由に、宿泊を拒否する申し入れがありました。この宿泊は熊本県による「ふるさと訪問事業」の一環であり、過去何度も開催されていたもので、この申し入れも県側に伝えられました。

県は知事名の抗議文を手渡し、宿泊拒否の撤回を求めましたが同ホテルは応じず、逆に「宿泊拒否は当然」、「県が加害者で、我々(ホテル側)は被害者」と開き直る始末でした。同月18日、県が熊本地方法務局へ報告をうと、人権侵害ならびに旅館業法違反などの疑いにより熊本地方検察庁の調査が開始されました。

2004年2月16日、同ホテルが旅館業法違反により営業停止処分とする方針が発表されると、同日にホテルは、廃業を表明。
こうした一連の事件が社会に知られる、とホテル側にもハンセン病関係団体のところにも、電話や手紙が殺到。その多くはイタズラや嫌がらせでした。

菊池恵楓園に送りつけられたという手紙や封書の一部です。

・何も仕事せず、国の世話になり 金ばかりもらい そこで早く 国の為 死を待て

・あなた方は、税金で運営される施設で生活していますね。差別(区別)されて当然です

・皆様に不足しているのは感謝と謙虚の心ですよ。わかりますか。皆様の医療費、生活費は我々労働者が経済活動をした血と汗と涙の結晶、税金ですよ

・政府も国民も その時代 その時々、あなた方にせい一ぱいの支援をしてきたのではないですか

・身体だけでなくこころも醜い

・控えめにしてこそ多少同情が集まるというもの

・温泉に入るより早く骨壷にはいれ

 

その後、沖縄ではホテル側への抗議の意味で、学生を中心に「喜んで一緒に温泉に入ろうじゃない会」という会がつくられ、一緒に温泉に入る学生達と元患者たちが紹介されました。

●小学校で

 2013年11月、福岡県の公立小学校で、人権教育担当の男性教諭(40代)がハンセン病に関する授業で児童に対し、ハンセン病への差別と偏見の説明とともに、「ハンセン病に罹ると骨がとける」と話し、これを聞いた児童が感想文・・・「骨や体がとける病気なので、友達がかかったら離れていく」、「怖いのでうつらないようにマスクをする」など・・・を国立ハンセン病療養所「菊池恵楓園」(熊本県合志市)へ郵送するという出来事がありました。

感想文を読んだ入所者自治会長の志村康さん(当時81)は「ハンセン病を通して人権について学ぼうというのは賛成だが、誤ったハンセン病像を教えては意味がない」。「人権とは何かという哲学がはっきりしないまま教えるから、子供には恐怖心だけが残る。」と残念がっていました。
なお、この件について福岡県教育委員会は菊池恵楓園に謝罪しました。

●39%が園名

 2016年3月27日付の朝日新聞によれば、全国の国立ハンセン病療養所13ヵ所の入所者自治会にアンケートを送り、調査したところ、全国の入所者1597人中、620人が本名を伏せて、園名を名乗っていることがわかりました。全体の約39%になります。

今なお園名を使う理由について、各自治会長は、「差別を避けようと名前を変え(※)、世の中に存在しない人間のように生きた。簡単には本名に戻せない」、「親族への影響を考えると躊躇する」と回答しています。

※本名を使うと、世間に知られたとき、家族・親族も偏見・差別を受けることがあるため。

らい予防法廃止後、亡くなった元患者は3507人にのぼります。2001年の国賠訴訟の判決後には遺族による遺骨の引き取りも増えましたが、現在(2016年)でも1940柱が分骨もされないまま各療養所の納骨堂に眠っています。

 
療養所 入所者数(※1) 平均年齢(※1) 入所者数(※2)
松丘保養園(青森県)  96 84.0 91
東北新生園(宮城県) 85 85.1 75
栗生楽泉園(群馬県) 93 85.1 87
多磨全生園(東京都) 213 84.4 193
国立駿河療養所(静岡県) 64 82.9 62
長島愛生園(岡山県) 225 84.2 205
邑久光明園(岡山県) 132 84.8 118
大島青松園(香川県) 69 82.5 64
菊池恵楓園(熊本県) 286 82.8 273
星塚敬愛園(鹿児島県) 162 84.9 156
奄美和光園(鹿児島県) 35 83.4 34
沖縄愛楽園(沖縄県) 187 82.5 169

各地の納骨堂
(上から栗生楽泉園、
長島愛生園、駿河療養所)

宮古南静園(沖縄県) 71 84.9 70

※1 2015年5月1日現在(株式会社三菱総合研究所資料より)
※2 2016年3月27日付朝日新聞より

つぎの文章は2016年3月27日付の毎日新聞からの転記です。


 ハンセン病患者の強制隔離を定めた「らい予防法」の廃止(1996年4月)から20年になるのを前に、毎日新聞は療養所の入所者と退所者を対象にアンケートを実施した。法廃止後の周囲の状況については、入所者、退所者とも過半数が「ほとんど変わらない」と回答した。
治る病気であるにもかかわらず全体の77%が「病気への差別や偏見がいまだにある」としており、社会の理解が十分に得られていないことがうかがえる結果となった。

毎日新聞は療養所のうち入所者100人以上の多磨全生園(東京都)▽長島愛生園(岡山県)▽邑久光明園(同)▽菊池恵楓園(熊本県)▽星塚敬愛園(鹿児島県)▽沖縄愛楽園(沖縄県)の入所者に自治会などを通じてアンケートを行い計570人から回答を得た。社会復帰した退所者の全国組織を通じた調査でも119人から回答を得た。

入所者の75%、退所者の89%が今も差別や偏見があると回答した。法廃止後も周囲の変化が「ない」とした入所者は52%、退所者は57%だった。
入所者の17%、退所者の21%が法廃止後、自身や家族・親族が地域で不快な思いをしたり、結婚に反対されたりするなどの差別を受けたとした。

また同アンケートの自由記述の欄には、つぎのような元患者の思いが綴られています(抜粋)。

《入所者》

・差別や偏見はないが、家族は私が入所者だというのを現在も隠している。家族にいつもすまない気持ちでいっぱい(60代女性)

・私たちには子供がいない。さまざまな差別偏見があったことを正しく後世に伝えてほしい(60代女性)

・すべてが遅きに失している。ただ静かに苦しみなく死を待つのみ(80代男性)

・ハンセン病のことが忘れ去られ、うもれてしまうことが不満。療養所など建造物を保存し、長く残してほしい(80代男性)

・隔離の中で無念な思いで亡くなった多くの僚友を思い、私たちは命を大切に、人間らしく生きなければ(70代男性)

・誤った政策で偏見差別を助長してきたことがいまだに払拭(ふっしょく)できない。国はもっと啓発活動に力を入れるべきだ(70代男性)

・たぶん、国は我々が死に絶える日を待っていて、風化は望ましいと考えている(70代女性)

・マスコミに対して。古里や肉親と会えるような状態を作ってください(80代男性)

・今も親族、知人に病気を打ち明ける状況にはない。いつになったら話ができる時代が来るのか(80代女性)

・ハンセン病になったため私の一生はめちゃくちゃになった。本当にかなしい(70代女性)

《退所者》

・17万円の給付金が収入のすべて(80代男性)

・国の隔離行政は医学科学の対象ではない、全くの野蛮行政だった。ハンセン病問題はまだ終わっていない(60代男性)

・全ての夢と目標を変えさせられ、生きてきた。生まれ変われば健康な体で夢のある人生を送りたい(70代男性)

・病歴を知られることなく静かに余生を過ごしたい(60代女性)

・夫婦のどちらかがハンセン病の場合でも、将来一緒に入れる施設を希望したい(70代女性)

・退所して本当によかった。普通の人として死んでいけると思う(70代女性)

・予防法廃止は私の人生を変えた。逃亡者のような生活をしなくてよくなった(70代男性)

・法律は変わっても高齢者の心はなかなかかわらない。せめて若者の心に差別意識が生まれないよう願う(70代男性)

・子供や孫たちが健やかに育ってほしい。ハンセン病のことは伝えていない(70代男性)

・予防法廃止前は周囲に知られたらと身をすぼめて生きていた。新聞やテレビなどで啓発していただき、ありがたい(70代男性)

・(新聞の)紙面にハンセン病の文字を見るたびに心が沈む(70代女性)

・予防法廃止後も心に受けた傷は一生なおらない(50代女性)

・ハンセン病を生き抜いたことが自分のほこりだ(70代男性)

・予防法廃止以降、少しずつかもしれないが、確実に状況は改善されていると思う。他の難病などへの支援と改善を望む(60代男性) 

●ゲーム

 関が原の戦いで戦死した西軍の武将大谷吉継(1558〜1600)が、ハンセン病患者だったことはよく知られています。
2010年日本ハンセン病学会は、大谷吉継が登場する「戦国BASARA3」というコンピュータゲームにおける大谷の紹介が、ハンセン病への偏見や差別を招くような表現であるとして、その表現を避けるよう要望書を同ゲームの製造元に提出しました。

このゲームでの大谷吉継のプロフィールは次のとおりです

重い病に侵されており、豊臣秀吉存命の時代より常に周囲から疎んじられてきた。己の身のみに降りかかった不幸を許容することができず、すべての人間を不幸に陥れることを目的に、天下分け目の戦を起こすため暗躍する

 大谷吉継は智勇兼備の武将と知られ、関が原の戦いでは自分に対して偏見・差別を持たなかった西軍の総大将石田三成に味方して戦い、戦死しました。このゲームの製造スタッフは、歴史の知識などほとんどないのでしょう。現在はこのように変更されています。

石田三成の友人。
徳川家康への復讐にしか目の向かない石田の補佐を司り、西軍の型を保つ。
豊臣秀吉存命時代においては、石田三成、徳川家康、黒田官兵衛と共に戦った。
秀吉の死後、再び訪れた乱世に毛利元就と同盟を結ぶ。
たった一つの目的を胸に数多の人間を陥れ、日の本を天下分け目の戦へと推し進めるべく暗躍する

 


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