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人権の碑


2019年11月15日。
栗生楽泉園の納骨堂前に建立された「人権の碑」の除幕式が挙行されました。

 この納骨堂には、園内で亡くなった元患者たち約2000人が眠っています。納骨堂など、本来療養所にはあるようなものではありませんが、亡くなっても故郷に帰れず、家族からも家族の墓に入ることを拒否される元患者たちが多かったためです。

 ハンセン病国賠訴訟の、全国原告団協議会(全原協)の会長だった故谺雄二(1932〜2014)は、生前新聞社の取材に、 「これが元患者たちの現実なんだよ。俺もこうなると思うと、寂しいもんだ」と語ったといいます。
谺は常々、「沖縄戦の戦没者名を刻んだ平和の礎(いしじ)のような石碑を園内に建て、遺骨が引き取られない元患者の名を彫って残したい」といい、草津を「人権のふるさと」にしたいと語ってきました。人権の回復を求めて闘ってきた谺にとって、人権の碑の建立は悲願であり、遺志でもあったのです。
建立の中心になったのは栗生楽泉園の自治会で、生きる会が協力し建設委員会が設置されました。自治会、建設委員会、ともに生きる会、園の四者が協議を重ね、同時に募金を募り、多くの寄附金とメッセージが寄せられました。

 当日、式は、藤田三四郎栗生楽泉園自治会長の挨拶と除幕ではじまり、冒頭に織田修一氏が指揮、諏訪部隆代氏のピアノ伴奏による「命の証、奪ったのはだれ(谺雄二作詞、村瀬信孝作曲)を合唱。続いて来賓の祝辞がつづきましたが、なかでも来場者の感動を呼んだのは草津小学校の生徒による、「ひとりひとりが相手を思いやり尊重することがいじめや差別偏見のない人権が守られる社会につながる」という挨拶でした。

 

納骨堂の前に建つ人権の碑

 

命の証、奪ったのは誰」を歌う合唱団

式後、マスコミの取材を受ける藤田自治会長

 

人権の碑

碑の裏側には年度別の物故者数が刻まれている

草津小学校の皆さん

 


■人権の碑の碑文(全文)

人権の碑
納骨堂からの「遺言」


「らい」(ハンセン病)に感染した私たちは、百年以上の永きに亘り社会から排斥され、療養所という名の「収容所」に隔離されました。「らい予防法」による終生絶対隔離でした。これにより、私たちは自らの名前、かけがいのない家族、そして、ふるさとを失い、更には人としての未来を奪われました。正に「人間の尊厳」を剥奪されたのです。
「無らい県運動」を通じて偏見、差別、恐怖感は国中に広まり、残された家族は、一家離散、一家心中などの悲劇の道を歩んだのです。
断種・堕胎、強制労働などの処遇に反抗的とみなされると、「重監房」(特別病室)に投獄されました。暗闇、極寒、飢餓の中で二十名余の人が命を落としたのです。

納骨堂には、無念にも亡くなった二千を超える魂が眠っています。死んでもふるさとの墓に入れない私たちと、生まれることを許されなかった胎児の遺骨です。

しかし、私たちは国と園当局に必死に対峙し、団結して人権闘争を闘い、重監房を撤廃させました。らい予防法廃止闘争、治療薬プロミン獲得運動等は、患者団体の全国闘争に発展したのです。
そして二00一年五月、私たちはついにらい予防法違憲国家賠償訴訟で勝訴しました。一世紀に亘る国の政策が断罪されたのです。

私たちは人間の空を取り戻しました!
まさに太陽は輝いたのです!

この勝訴によって「人間回復」の道が開かれました。この私たちの勝利は、社会に存在する不当な人権侵害を克服するための大切な拠り所にしなくてはなりません。そこで、私たちのこの思い(遺言)を「人権の碑」に刻み「人権のふるさと」栗生楽泉園から、平和で人権が尊ばれる社会の構築を切に願うものです。


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