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日本におけるハンセン病の歴史(江戸時代以前)


 かつて癩病(らいびょう)、白癩(びゃくらい)といわれたハンセン病は、古くからから世界の各地に存在していたため、多くの古文書にハンセン病を推定させる、あるいはハンセン病の症状そのものの記述が残されています。

日本書紀では推古天皇の20年(613年)、百済から来日した人の中に白癩(びゃくらい)の人がいたので入国を止めたところ、その人は「築山を造るのが得意なので追い返さないでほしい」と言うので、御所の庭に須弥山(仏教において、世界の中心とされる山)を築かせたという話があります。

また833年に書かれた令義解という書物には、「悪疾を白癩という。この病気は体内のいる虫が五臓を食べて睫毛や眉毛が抜け、鼻が崩れ手足の指が落ちるので、床を同じにしてはならない」という記載があり、あきらかにハンセン病の症状を呈しています。

 仏教が広まるとともに、因果応報による業病(前世の行為の報いでかかる病気)とされるようになり、発症者は非人として扱われるようになりました平安時代初期の仏教説話集である日本霊異記には法華経を書写した人を罵った人が白癩になったという話が載っています。

ただし白癩とはハンセン病だけに限らず、当時は皮膚組織の疾患、たとえば尋常性白斑(顔や手に白い斑点ができる)のような疾患にも使われていたので、こうした古文書に書かれた人たちが、すべてハンセン病患者だったとはかぎりません。

仏教の保護者として知られた藤原光明子(ふじわら こうみょうし 701〜760 聖武天皇の皇后)には、こんな話が伝わっています。

 光明子は、仏のお告げによって貧しい人や病人のために薬草の風呂を作り、自ら入浴者の垢(あか)を洗い流していました。世話をした患者は次第に増えていきましたが、1000人目の患者は全身が膿にただれた重い皮膚病患者でした。しかし光明子は意を決し、自ら口で膿を吸い取りました。するとその患者はまばゆいばかりの光を放ち忽然(こつぜん)と姿を消したといいます。この患者は阿しゅく如来(あしゅくにょらい)が姿を変えていたのです。

この話はもちろん伝説ですが、国立ハンセン病療養所の邑久光明園光明子の名前から名付けられています。
 
 こうしたハンセン病患者に対し、その救済に尽力した人もいます。
594年、聖徳太子は「四箇院の制」により四天王寺を建立しました。
四箇院とは敬田院、悲田院、施薬院、療病院のことで、現代風にいえば敬田院は修行を行うとところ。悲田院は貧者や老人救済。施薬院は薬草の栽培と調合、療病院は病院で、ハンセン病患者もその対象とされていたようです。

 1243年、鎌倉時代、律宗の僧忍性(にんしょう 1217〜1303)はハンセン病患者救済のため、奈良の般若寺の北に北山十八間戸という施設をつくり、患者救済にあたりました(現在は奈良市川上町に移転)。東西約37m、内部は18室に区切られて1室の広さは2畳ほどでした。ここで療養した患者はのべ1万8千人といわれています。

室町時代から戦国時代にかけて、各地の村落では農民の団結・自立心が強まり各村では相互扶助的に治療・看病にあたりましたが、これが村内・外の壁となって外部への差別を生むようになってきました。

 

忍性 北山十八間戸

 江戸時代には、家族が患者を四国八十八ヶ所や熊本の戦国武将加藤清正公祠などの霊場へ巡礼に旅立たせることもありました。加藤清正はハンセン病だったという説もあり、その墓所である本妙寺(熊本市)に参拝して豪傑として名高い清正にあやかって病気を治したいと考えた人が多かったと思われます。

 しかしそのためか、本妙寺参道には大勢のハンセン病患者が並び参拝者に物乞いをする者が多くなり、明治時代になってこの様子を見て衝撃を受けたハンナ・リデルと姪のエダ・ライト等が熊本回春病院を設立するきっかけになったのです。この熊本にかぎらず、業病として家や郷里を追われた患者は「浮浪らい」と呼ばれ、物乞いのため大きな寺社の周辺にたむろするようになりました。


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