4章 4-2話
◇
季節は212年の初夏、が袁紹軍へ潜入して数ヵ月が経過していた。
現在5月の中頃を過ぎ、傍仕えとして女官入りしたも大分馴染んでいる。
何の因果か、も宮仕えをしていた母親と同じ宮仕えになり城住まいで過ごしていた。
傍仕えの仕事で主なものは、甄夫人の身辺の世話と補助。
後は簡単な護身術を習い、いざとなれば攻め込まれた際などの盾として戦う。
勿論甄夫人だけでなく袁紹が抱える5人の側室の世話も任されたりと色々だ。
最近は他の側室や、女官にも話し相手が増え
着々と袁紹軍の抱える内情を集めつつあった。
今でこそ馴染んでいるだったが、入城したばかりの頃は色眼鏡で見られたリ
影でコソコソ話す官吏や女官らの姿をよく見かけていた。
傍仕えにと希望した甄夫人ですら、驚いた顔でと顔合わせをしたくらいには疑惑の目を向けられていたのだ。
何処から洩れたのか、の父は南郡の太守で母は曉城に勤める官吏。
去年の反乱軍との戦いのさなか命を奪われた・・・
その父母を親に持つ娘が袁紹に仕えたいと客将を伴って現れた、と。
ある者は入城の仕方について根も葉もない噂を立て
またある者はが客将に保護されたのが白馬の地に近い所だった事についてコソコソ話し合ったのだ。
「貴女に関して皆自由に勝手な憶測を話していますが・・わたくしはそうは思いません」
と顔合わせするなり、開口一番に甄姫は言った。
噂など当てにならない、貴女の入城の仕方が何であれ
わたくしは貴女自身の口から出た言葉のみを真実とします、堂々としていればいいのです。と。
好き勝手な事を囀るのは構わなかったが、1つだけ赦せないのは父母を悪く言われる事だった。
噂に心を苛まれてしまう前に堂々と在れと、甄姫は言いたかったのかもしれない。
「確認ですが、本当にわたくしに仕える傍仕えを希望してるんですの?」
「はい、袁紹殿ではなく他ならぬ甄夫人にお仕えしたいのです」
「・・・どうやらそれ相応の覚悟があるようですわね、ならばわたくしの傍仕えとして働く事を許可しましょう」
「有り難うございます」
ハッキリと甄姫に仕えたいと告げたから、一瞬目を反らした甄姫。
真っ直ぐに向けられる目からは、何の打算も感じられない。
本心から自分に仕えたいと言っているのがダイレクトに伝わり、甄姫は胸を打たれた。
今までも現在も、打算なしに自分に近づいて来た者は居らず
皆何かしらの目的や企みを秘め、甄姫に近づき利用し、裏切って来た者ばかり。
自他共に認める珠のような美貌を持つ甄姫も、この戦乱の世の犠牲者なのだろう・・
だからこそ、目の前にいる少女が口にした真っ直ぐで偽りも打算も何もない素直な言葉が嬉しかった。
この少女が・・複雑な運命の下に生まれて来たとしても
永・董氏夫婦は我が子として育て、そして殺された。
董氏があれを巾着にしまい込み、誰かの目に触れないよう持ち歩いていたのも全てはこの少女を守る為。
わたくしがその巾着を見つけ、中を検めた事も必然だった・・
きっと董氏は懇意にしていたわたくしに見つけさせる為に、あの日出仕する際も衣服に忍ばさせていたのでは?
全ては・・自分達の死後、代わって誰かに少女を託す為に。
ならばわたくしはそれを受け取りましょう・・・董氏がわたくしを信じて託した宝物を。
そんなこんなで無事は甄夫人の傍仕えとして仕える事に成功した。
周囲の目を盗まずとも、甄夫人から個室を宛がわれたお陰で鷹を呼ぶのも飛ばすのも容易に出来た。
流石に真昼間から鷹を呼ぶのは流石に目立つ、夜が更けて辺りが静かになる頃張燕に向けた言伝を鷹に託してある。
策の為、常山郡を発って既に半年が経とうとしている。
白馬の地まで同行してくれた白繞、その彼が無事常山郡に帰還した事を祈るばかりだ。
・・顔良がを捕えようとしたあの瞬間、それを防ぐように放たれた矢の方角に居たのは白繞しか思いつかない。
あの時白繞が矢を放っていなければ、確実に私は捕らえられ、盾とされていただろう。
白馬での策が成功したのは、白繞の咄嗟の判断が齎したものだ。
言伝には白繞の無事を危惧した事も記しておいた。
文に対する返事が届くのを心待ちにしつつ、は傍仕えの任務に戻る。
傍仕えの女官は朝も早い、初夏とはいえ朝方早くは底冷えも残るのだ。
日も昇らない早朝から仕え主、甄夫人の部屋を暖める為の火鉢を置き朝日が昇る頃に下げる。
それから湯を沸かし、桶と柄杓を用意しておく。
夫人が目覚めてから顔を洗ったりする為の支度だ。
忙しなく5人の側室の女官や女中達が通路を行き来するのも、既に見慣れた朝の光景。
もそんな女官達に混ざり、朝の支度を開始する。
大勢いる女官の中にも階級があり、それらは統一して漢室の後宮を基準に使う。
頂点は三妃と呼ばれる『貴嬪』『夫人』『貴人』とされ、甄姫も三妃の1人に位置する。
その下位には九嬪の淑妃、淑媛、淑儀、修華、修容、修儀、捷妤(本来は女へんですが化ける)、容華、充華だ。
貴嬪の更に上まで上り詰めた者だけが『正室』つまりは皇后の座に就けるのである。
やがては子を産み、その子が男であれば何れ皇太后と呼ばれるのだ。
高貴な存在の甄夫人付の傍仕えになったの身分は、女官の中の最上位『美人』に位置する。
更に『才人』『中才人』が一般の女官、更には女中となる仕組みだ。
才人は三妃や側室の衣全般を管理し、最も下位の中才人が掃除洗濯と食事の支度全てを賄っている。
集められた平民の娘らは、先ず皆等しく『中才人』からスタートし
己自身の力と能力のみで階級を上げて行くのが一般的。
こう見ると、改めての待遇が破格の扱いだと分かる。
だからこそ良からぬ噂を立てたり、陰口を言う者が始めは多かったのだ。
だが負けん気の強いは、噂話も気にする事なく勤勉に働き
誰よりもマメに動き、女中(中才人)達の仕事も手伝ったり等を自然にするような性格だった。
その姿勢が次第と好意的に受け入れられ、やがては陰口を叩く者も居なくなり
真面目でよく気の付くは側室達からも気に入られるようになった。
「今日も朝からよく動く元気な子だねえ」
早速通路を早足で歩いている所を正面から声を掛けられる。
チラッと顔を上げれば袁紹の側室の1人、芙蓉夫人の姿を見つけた。
甄姫と同等の夫人だが、甄姫は袁煕の宮の夫人なので並び立つ事は無い。
袁紹の寵愛も多いと囁かれるだけあり、芙蓉の名を持つ側室は輝かんばかりの美しさだ。
その芙蓉より斜め下に設置したの視界に側室のちょいちょいと招く美しい手が映る。
「国元の家族には連絡したのかい?」
手招かれて傍に行くと慣れた動きで扇子を取り出した芙蓉夫人は
よく手入れされた白魚のような指に挟んだ扇子で、口許を隠するとそう囁いた。
働いた事のない滑らかな手を見つつ、一瞬ドキリとした、それには理由があった。
三妃に座する側室には珍しく、芙蓉夫人は身の回りの世話を自分でこなし
その他の補佐のみに女官を配している変わった人(と囁かれている)
だからこうして今の目の前にいる訳だなんだが・・・
身の回りの事を自分でするという事は、夜遅くまで片付けやらに追われる女官と同じく起きていたという事。
芙蓉夫人の宮は丁度貸し与えられたの私室と通路を挟んで向かい合いに在る、つまり見られていたのだ。
入城し、甄姫の傍仕えに決まって宿舎として宛がわれた個室から鷹を飛ばすところを。
声を掛けられた時は叱責、または袁紹に突き出される事を覚悟した。
傍目に見れば外と連絡を取っているようにしか見えないし
連絡を取っている相手が敵方だと誰しも予想するだろう。
ましてや芙蓉夫人は袁紹の側室・・報告しないはずがない・・・
珍しく動揺し、二の句が継げずにいると意外な言葉を芙蓉は口にしたのだ。
国元にいる家族への連絡をしていたんだろう?と。
普通民草は鷹を飼わないし連絡をしたりする者はいない。
疑われて当然の行動をしていたのにも関わらず、芙蓉は怪しむどころか敢えて目を瞑った。
本心は分からないが、の目にはそう映ったのだ。
その日以来すれ違ったり姿を見かけたりすると、こうして芙蓉の方から声をかけてくるようになった。
「芙蓉夫人、このような往来で聞く事ではありません・・」
「すまないね、どうも美人を見つけると声を掛けたくなるのよ」
「・・はあ、それは光栄?でございます」
「あはは、あんたは素直でいいねえ」
忙しなく動き回る女官や女中の邪魔にならないよう端に寄っての会話。ただ端にいるのでは目立つので
湯を沸かしに来た傍仕えを装い、台所へ向かう。
が移動すると芙蓉夫人も後についてくる、何だかこれでは却って目立つのでは?
最初はそう感じたが、なにぶん朝の支度の忙しい時だ皆自分の仕事をこなすことで精一杯
動きを止めようが夫人と移動しようが、気にかける者は少なかった。
芙蓉の名を戴く夫人はとても美しく、甄姫に引けを取らぬ美貌を持つが話し方は気さくてを見る目はとても優しい。
それこそ姉が出来たかのような感覚に近い。
にも双子の姉はいたが、こんな風に穏やかな空気になった試しはないばかりか
何処か遠慮し合っていたようにも思い起こせる。
本当の家族なのに、今全くの他人で立場も違う方に対し感じる情のようなものを感じた記憶がなかった。
芙蓉はの氏に女官最高位の『美人』という階級名を付けて呼ぶ。
側室も同じだが、ある程度高位になる者だけが階級名の前に自分の氏を付けて名乗る事を許される。
三妃より下位、九嬪の場合は上位の淑妃・淑媛・淑儀までが許され
下位の六嬪は階級名のみで呼ばれたりするのだ。
この決まりは女中や女官にも適応され、の座する女官の最高位は氏を付けて階級名を名乗れる。
一部の『才人』までが氏を付ける事を許され『中才人』の者は名を名乗る事すら許されていない。
呼びつけられる時も階級名で呼ばれるだけで、個は必要とされないのだ。
「ところで芙蓉夫人、今日も何か用件があって私に声を掛けられたのですよね?」
「流石、美人は鋭いねえ・・そういう聡いところがとても好きだよ」
話は戻るが、いつも理由なく声をかけてきたりしない芙蓉の登場に
いつもの如く声をかけて来た理由があると察したは、湯が沸くまでの間を行動の理由解明に充てた。
少し大げさではあるが、感心した様子で芙蓉はの頭を撫でる。
「最近は戦の状況に変化がなくてね、城内もあまり雰囲気が良くない」
声を落とした芙蓉が語り出したのは戦の戦況についてだ。
膠着状態が続いているらしく、袁紹も苛立ち部下の意見にも色を付けて採用し始めている。
最近では、軍師の沮授や対する郭図ら武将との対立が目立つようになり
田豊のように何れは沮授も投獄されるような空気が漂い、沮授の軍師としての権限も減らされたらしい。
上がピリピリしているせいで官吏達にもそれが伝染し、緊張感は城全体に広がり始めている。
芙蓉が心配していたのは、が夜な夜なしていた鷹を呼ぶ行為について。
幾ら掠れるような指笛でも、鷹の羽ばたく音や、個室の前を通る見回りの者にいつ気が付かれてもおかしくない。
そういう状況になってるから、戦況が好転するまで鷹を飛ばすのは控えなさいと芙蓉は言った。
確かに今の城内の雰囲気は中々殺伐としていて、何もやっていなくても目に付いたほんの些細な行動にすらいちゃもんを付けて来そうなのである。
有り難い注意点を口にした芙蓉に、は心底感謝した。
幸い此方から鷹を飛ばす事は暫くなさそうだし、張燕からの返事が来る様子もない。
気を付けます、と芙蓉に返事をしたタイミングで湯が沸いた。
甄姫の待つ宮へ戻りますね、と芙蓉に拱手し
対する芙蓉も頷き、優しい眼差しでを送り出した。
その時だ、袁紹や袁煕達の為の宮を取り仕切る皇后府の長、大長秋が現れたのは。
本来は側室や妾に手を付けないよう宦官の男が務める役職。
だが袁紹が霊帝の死後、宦官を老若の関係なしに虐殺してしまった為 殺戮を免れた呂強がその座に就いていた。
呂強はにとっても関係がある人物、双子の姉、昱の嫁いた家の舅にあたる者。
彼は霊帝の頃より常識ある宦官だった。
自らも十常侍に名を連ねた高級宦官だったが、私利私欲を貪る他の十常侍を諫め霊帝にも進言した。
しかしそれを良く思わない他の十常侍らに偽りを告発され、都から離れていた。
が、霊帝の死後、都を占拠した袁紹により十常侍らを含めた若い官吏や宦官らが皆殺しされたと聞き
都の在る洛陽に戻ろうかと考えたが、反乱後の混乱に乗じた董卓の台頭を赦してしまい
霊帝の子、劉協や劉弁は董卓に保護され 袁紹は翼州に後退。
年月が経ち、董卓を排した袁紹が群雄の頂点に立った頃
改めて袁紹に、知識と良識ある性質を買われて召喚され今に至る。
その呂強がを見つけるなり、来いという仕草をした。
一瞬だけ何か粗相をしたのだろうかと肝を冷やす。
「美人、お主に面会者がある」
「私に・・・分かりました、そのように」
「面会者は私の部屋に待たせてある、案内してやる故付いて参れ」
「御意にございます」
宮に勤める者として、そこを統括する最高位・大長秋の言葉は絶対。
まして身内の嫁ぎ先の家長にもあたるのだ。
大長秋へと上り詰めた呂強はの仕事を一時的に別の女官に任せ、をこの場から連れ出した。
女官らの身元は本来把握している者は別にいるが、大長秋だけは身元を把握している為
数カ月前に此処に現れ、甄姫の傍仕えとして勤める事になったの身元も知れている。
とは言え、下賤の身・・いや、一太守の子である自分から大長秋に座する呂強に声は掛けられない。
太守は地方役職でしかないのだ、官吏勤めをしていた母ですら大長秋の身分には届かない。
なので只管静かには面会者を待たせてあるという大長秋の私室へと俯きがちに進む事に努めた。
ただ疑問はあった。
何ゆえ、どのような縁があり地方役職の家と高級宦官職を務める家とが縁を結べたのか。
疑問は残るが、自分の立場からそれを大長秋に問う事は許されていない。
思案する間にも皇后府から出たは城内の中枢へ案内されていく。
決して立ち入る事の無い、政治の中枢だ。
此処の奥裏に袁紹や袁家の者が暮らす居住区が在り、その手前に且つては宦官区が存在していた。
母、董氏もこの区画で働いていたんだろうか・・・
生憎と父母、特に母の官位が何でどんな職務に就いているのかは本人しか知らなかった。
それ故に母が官吏だとしても具体的にどんな役職に就いていたのか知らない為、他者に誇る事は出来なかったが
どんな仕事をしていてもにとっては誇れる自慢の父母だった事に変わりはない。
それに、大長秋を勤める呂家に嫁げた姉のお陰か家の後見人としても立ってくれた。
これで自分がどんなヘマをしても、残された兄や弟達の将来は安泰だ。
今年17になる少女がそう覚悟を新たにした時、前を歩く呂勝が足を止め顔だけ此方に向けて到着を告げる。
「中には面会者を待たせてある、私は立ち会わぬが立会人として信の置ける者も待たせてある」
「はい」
「話が終わった時は立会人に断り、そのまま戻るといい」
「ご丁寧に有難うございました」
袁紹のいた謁見の間を閉ざす扉には引けを取らないが、十分絢爛な造りの扉を前に拱手。
ノックをしようと右手を拳にしたところ、軽く肩に触れる感覚を感じた。
「――呂強・・さま?」
「よく、これまでの道のりを一人で参られた・・・永殿や董氏殿も誇らしいだろう」
「あ・・・えと・・」
「ご自身で決めた道とはいえ此処は貴女に相応しくはない・・だが貴女ならば必ず乗り越えられる」
「・・・・」
驚いて呂強を見上げたら、此処に来るまでの尊大さから一転。
憐憫に溢れた表情になるや、労うような、誇らしげな顔でそう言ったのだ。
口振りからして父母の事も自身がどんな風にして此処まで来たのかすら見通してるかのような・・
でも不思議と、すんなり呂強の言葉を聞く事が出来た。
偽りを言っているようには微塵も感じなかったから。
気になる事も言っていたが、それについて考えるより先ず
呂強が自分の事や家の事に親身になってくれている事が頼もしかった。
ただがむしゃらに進んで来た鳥が、一時だとしても羽を休める枝を見つけたかのような
そんな安心感に包まれ、呂強にもう一度拱手するとは絢爛な扉をノックした。
現在5月の中頃を過ぎ、傍仕えとして女官入りしたも大分馴染んでいる。
何の因果か、も宮仕えをしていた母親と同じ宮仕えになり城住まいで過ごしていた。
傍仕えの仕事で主なものは、甄夫人の身辺の世話と補助。
後は簡単な護身術を習い、いざとなれば攻め込まれた際などの盾として戦う。
勿論甄夫人だけでなく袁紹が抱える5人の側室の世話も任されたりと色々だ。
最近は他の側室や、女官にも話し相手が増え
着々と袁紹軍の抱える内情を集めつつあった。
今でこそ馴染んでいるだったが、入城したばかりの頃は色眼鏡で見られたリ
影でコソコソ話す官吏や女官らの姿をよく見かけていた。
傍仕えにと希望した甄夫人ですら、驚いた顔でと顔合わせをしたくらいには疑惑の目を向けられていたのだ。
何処から洩れたのか、の父は南郡の太守で母は曉城に勤める官吏。
去年の反乱軍との戦いのさなか命を奪われた・・・
その父母を親に持つ娘が袁紹に仕えたいと客将を伴って現れた、と。
ある者は入城の仕方について根も葉もない噂を立て
またある者はが客将に保護されたのが白馬の地に近い所だった事についてコソコソ話し合ったのだ。
「貴女に関して皆自由に勝手な憶測を話していますが・・わたくしはそうは思いません」
と顔合わせするなり、開口一番に甄姫は言った。
噂など当てにならない、貴女の入城の仕方が何であれ
わたくしは貴女自身の口から出た言葉のみを真実とします、堂々としていればいいのです。と。
好き勝手な事を囀るのは構わなかったが、1つだけ赦せないのは父母を悪く言われる事だった。
噂に心を苛まれてしまう前に堂々と在れと、甄姫は言いたかったのかもしれない。
「確認ですが、本当にわたくしに仕える傍仕えを希望してるんですの?」
「はい、袁紹殿ではなく他ならぬ甄夫人にお仕えしたいのです」
「・・・どうやらそれ相応の覚悟があるようですわね、ならばわたくしの傍仕えとして働く事を許可しましょう」
「有り難うございます」
ハッキリと甄姫に仕えたいと告げたから、一瞬目を反らした甄姫。
真っ直ぐに向けられる目からは、何の打算も感じられない。
本心から自分に仕えたいと言っているのがダイレクトに伝わり、甄姫は胸を打たれた。
今までも現在も、打算なしに自分に近づいて来た者は居らず
皆何かしらの目的や企みを秘め、甄姫に近づき利用し、裏切って来た者ばかり。
自他共に認める珠のような美貌を持つ甄姫も、この戦乱の世の犠牲者なのだろう・・
だからこそ、目の前にいる少女が口にした真っ直ぐで偽りも打算も何もない素直な言葉が嬉しかった。
この少女が・・複雑な運命の下に生まれて来たとしても
永・董氏夫婦は我が子として育て、そして殺された。
董氏があれを巾着にしまい込み、誰かの目に触れないよう持ち歩いていたのも全てはこの少女を守る為。
わたくしがその巾着を見つけ、中を検めた事も必然だった・・
きっと董氏は懇意にしていたわたくしに見つけさせる為に、あの日出仕する際も衣服に忍ばさせていたのでは?
全ては・・自分達の死後、代わって誰かに少女を託す為に。
ならばわたくしはそれを受け取りましょう・・・董氏がわたくしを信じて託した宝物を。
そんなこんなで無事は甄夫人の傍仕えとして仕える事に成功した。
周囲の目を盗まずとも、甄夫人から個室を宛がわれたお陰で鷹を呼ぶのも飛ばすのも容易に出来た。
流石に真昼間から鷹を呼ぶのは流石に目立つ、夜が更けて辺りが静かになる頃張燕に向けた言伝を鷹に託してある。
策の為、常山郡を発って既に半年が経とうとしている。
白馬の地まで同行してくれた白繞、その彼が無事常山郡に帰還した事を祈るばかりだ。
・・顔良がを捕えようとしたあの瞬間、それを防ぐように放たれた矢の方角に居たのは白繞しか思いつかない。
あの時白繞が矢を放っていなければ、確実に私は捕らえられ、盾とされていただろう。
白馬での策が成功したのは、白繞の咄嗟の判断が齎したものだ。
言伝には白繞の無事を危惧した事も記しておいた。
文に対する返事が届くのを心待ちにしつつ、は傍仕えの任務に戻る。
傍仕えの女官は朝も早い、初夏とはいえ朝方早くは底冷えも残るのだ。
日も昇らない早朝から仕え主、甄夫人の部屋を暖める為の火鉢を置き朝日が昇る頃に下げる。
それから湯を沸かし、桶と柄杓を用意しておく。
夫人が目覚めてから顔を洗ったりする為の支度だ。
忙しなく5人の側室の女官や女中達が通路を行き来するのも、既に見慣れた朝の光景。
もそんな女官達に混ざり、朝の支度を開始する。
大勢いる女官の中にも階級があり、それらは統一して漢室の後宮を基準に使う。
頂点は三妃と呼ばれる『貴嬪』『夫人』『貴人』とされ、甄姫も三妃の1人に位置する。
その下位には九嬪の淑妃、淑媛、淑儀、修華、修容、修儀、捷妤(本来は女へんですが化ける)、容華、充華だ。
貴嬪の更に上まで上り詰めた者だけが『正室』つまりは皇后の座に就けるのである。
やがては子を産み、その子が男であれば何れ皇太后と呼ばれるのだ。
高貴な存在の甄夫人付の傍仕えになったの身分は、女官の中の最上位『美人』に位置する。
更に『才人』『中才人』が一般の女官、更には女中となる仕組みだ。
才人は三妃や側室の衣全般を管理し、最も下位の中才人が掃除洗濯と食事の支度全てを賄っている。
集められた平民の娘らは、先ず皆等しく『中才人』からスタートし
己自身の力と能力のみで階級を上げて行くのが一般的。
こう見ると、改めての待遇が破格の扱いだと分かる。
だからこそ良からぬ噂を立てたり、陰口を言う者が始めは多かったのだ。
だが負けん気の強いは、噂話も気にする事なく勤勉に働き
誰よりもマメに動き、女中(中才人)達の仕事も手伝ったり等を自然にするような性格だった。
その姿勢が次第と好意的に受け入れられ、やがては陰口を叩く者も居なくなり
真面目でよく気の付くは側室達からも気に入られるようになった。
「今日も朝からよく動く元気な子だねえ」
早速通路を早足で歩いている所を正面から声を掛けられる。
チラッと顔を上げれば袁紹の側室の1人、芙蓉夫人の姿を見つけた。
甄姫と同等の夫人だが、甄姫は袁煕の宮の夫人なので並び立つ事は無い。
袁紹の寵愛も多いと囁かれるだけあり、芙蓉の名を持つ側室は輝かんばかりの美しさだ。
その芙蓉より斜め下に設置したの視界に側室のちょいちょいと招く美しい手が映る。
「国元の家族には連絡したのかい?」
手招かれて傍に行くと慣れた動きで扇子を取り出した芙蓉夫人は
よく手入れされた白魚のような指に挟んだ扇子で、口許を隠するとそう囁いた。
働いた事のない滑らかな手を見つつ、一瞬ドキリとした、それには理由があった。
三妃に座する側室には珍しく、芙蓉夫人は身の回りの世話を自分でこなし
その他の補佐のみに女官を配している変わった人(と囁かれている)
だからこうして今の目の前にいる訳だなんだが・・・
身の回りの事を自分でするという事は、夜遅くまで片付けやらに追われる女官と同じく起きていたという事。
芙蓉夫人の宮は丁度貸し与えられたの私室と通路を挟んで向かい合いに在る、つまり見られていたのだ。
入城し、甄姫の傍仕えに決まって宿舎として宛がわれた個室から鷹を飛ばすところを。
声を掛けられた時は叱責、または袁紹に突き出される事を覚悟した。
傍目に見れば外と連絡を取っているようにしか見えないし
連絡を取っている相手が敵方だと誰しも予想するだろう。
ましてや芙蓉夫人は袁紹の側室・・報告しないはずがない・・・
珍しく動揺し、二の句が継げずにいると意外な言葉を芙蓉は口にしたのだ。
国元にいる家族への連絡をしていたんだろう?と。
普通民草は鷹を飼わないし連絡をしたりする者はいない。
疑われて当然の行動をしていたのにも関わらず、芙蓉は怪しむどころか敢えて目を瞑った。
本心は分からないが、の目にはそう映ったのだ。
その日以来すれ違ったり姿を見かけたりすると、こうして芙蓉の方から声をかけてくるようになった。
「芙蓉夫人、このような往来で聞く事ではありません・・」
「すまないね、どうも美人を見つけると声を掛けたくなるのよ」
「・・はあ、それは光栄?でございます」
「あはは、あんたは素直でいいねえ」
忙しなく動き回る女官や女中の邪魔にならないよう端に寄っての会話。ただ端にいるのでは目立つので
湯を沸かしに来た傍仕えを装い、台所へ向かう。
が移動すると芙蓉夫人も後についてくる、何だかこれでは却って目立つのでは?
最初はそう感じたが、なにぶん朝の支度の忙しい時だ皆自分の仕事をこなすことで精一杯
動きを止めようが夫人と移動しようが、気にかける者は少なかった。
芙蓉の名を戴く夫人はとても美しく、甄姫に引けを取らぬ美貌を持つが話し方は気さくてを見る目はとても優しい。
それこそ姉が出来たかのような感覚に近い。
にも双子の姉はいたが、こんな風に穏やかな空気になった試しはないばかりか
何処か遠慮し合っていたようにも思い起こせる。
本当の家族なのに、今全くの他人で立場も違う方に対し感じる情のようなものを感じた記憶がなかった。
芙蓉はの氏に女官最高位の『美人』という階級名を付けて呼ぶ。
側室も同じだが、ある程度高位になる者だけが階級名の前に自分の氏を付けて名乗る事を許される。
三妃より下位、九嬪の場合は上位の淑妃・淑媛・淑儀までが許され
下位の六嬪は階級名のみで呼ばれたりするのだ。
この決まりは女中や女官にも適応され、の座する女官の最高位は氏を付けて階級名を名乗れる。
一部の『才人』までが氏を付ける事を許され『中才人』の者は名を名乗る事すら許されていない。
呼びつけられる時も階級名で呼ばれるだけで、個は必要とされないのだ。
「ところで芙蓉夫人、今日も何か用件があって私に声を掛けられたのですよね?」
「流石、美人は鋭いねえ・・そういう聡いところがとても好きだよ」
話は戻るが、いつも理由なく声をかけてきたりしない芙蓉の登場に
いつもの如く声をかけて来た理由があると察したは、湯が沸くまでの間を行動の理由解明に充てた。
少し大げさではあるが、感心した様子で芙蓉はの頭を撫でる。
「最近は戦の状況に変化がなくてね、城内もあまり雰囲気が良くない」
声を落とした芙蓉が語り出したのは戦の戦況についてだ。
膠着状態が続いているらしく、袁紹も苛立ち部下の意見にも色を付けて採用し始めている。
最近では、軍師の沮授や対する郭図ら武将との対立が目立つようになり
田豊のように何れは沮授も投獄されるような空気が漂い、沮授の軍師としての権限も減らされたらしい。
上がピリピリしているせいで官吏達にもそれが伝染し、緊張感は城全体に広がり始めている。
芙蓉が心配していたのは、が夜な夜なしていた鷹を呼ぶ行為について。
幾ら掠れるような指笛でも、鷹の羽ばたく音や、個室の前を通る見回りの者にいつ気が付かれてもおかしくない。
そういう状況になってるから、戦況が好転するまで鷹を飛ばすのは控えなさいと芙蓉は言った。
確かに今の城内の雰囲気は中々殺伐としていて、何もやっていなくても目に付いたほんの些細な行動にすらいちゃもんを付けて来そうなのである。
有り難い注意点を口にした芙蓉に、は心底感謝した。
幸い此方から鷹を飛ばす事は暫くなさそうだし、張燕からの返事が来る様子もない。
気を付けます、と芙蓉に返事をしたタイミングで湯が沸いた。
甄姫の待つ宮へ戻りますね、と芙蓉に拱手し
対する芙蓉も頷き、優しい眼差しでを送り出した。
その時だ、袁紹や袁煕達の為の宮を取り仕切る皇后府の長、大長秋が現れたのは。
本来は側室や妾に手を付けないよう宦官の男が務める役職。
だが袁紹が霊帝の死後、宦官を老若の関係なしに虐殺してしまった為 殺戮を免れた呂強がその座に就いていた。
呂強はにとっても関係がある人物、双子の姉、昱の嫁いた家の舅にあたる者。
彼は霊帝の頃より常識ある宦官だった。
自らも十常侍に名を連ねた高級宦官だったが、私利私欲を貪る他の十常侍を諫め霊帝にも進言した。
しかしそれを良く思わない他の十常侍らに偽りを告発され、都から離れていた。
が、霊帝の死後、都を占拠した袁紹により十常侍らを含めた若い官吏や宦官らが皆殺しされたと聞き
都の在る洛陽に戻ろうかと考えたが、反乱後の混乱に乗じた董卓の台頭を赦してしまい
霊帝の子、劉協や劉弁は董卓に保護され 袁紹は翼州に後退。
年月が経ち、董卓を排した袁紹が群雄の頂点に立った頃
改めて袁紹に、知識と良識ある性質を買われて召喚され今に至る。
その呂強がを見つけるなり、来いという仕草をした。
一瞬だけ何か粗相をしたのだろうかと肝を冷やす。
「美人、お主に面会者がある」
「私に・・・分かりました、そのように」
「面会者は私の部屋に待たせてある、案内してやる故付いて参れ」
「御意にございます」
宮に勤める者として、そこを統括する最高位・大長秋の言葉は絶対。
まして身内の嫁ぎ先の家長にもあたるのだ。
大長秋へと上り詰めた呂強はの仕事を一時的に別の女官に任せ、をこの場から連れ出した。
女官らの身元は本来把握している者は別にいるが、大長秋だけは身元を把握している為
数カ月前に此処に現れ、甄姫の傍仕えとして勤める事になったの身元も知れている。
とは言え、下賤の身・・いや、一太守の子である自分から大長秋に座する呂強に声は掛けられない。
太守は地方役職でしかないのだ、官吏勤めをしていた母ですら大長秋の身分には届かない。
なので只管静かには面会者を待たせてあるという大長秋の私室へと俯きがちに進む事に努めた。
ただ疑問はあった。
何ゆえ、どのような縁があり地方役職の家と高級宦官職を務める家とが縁を結べたのか。
疑問は残るが、自分の立場からそれを大長秋に問う事は許されていない。
思案する間にも皇后府から出たは城内の中枢へ案内されていく。
決して立ち入る事の無い、政治の中枢だ。
此処の奥裏に袁紹や袁家の者が暮らす居住区が在り、その手前に且つては宦官区が存在していた。
母、董氏もこの区画で働いていたんだろうか・・・
生憎と父母、特に母の官位が何でどんな職務に就いているのかは本人しか知らなかった。
それ故に母が官吏だとしても具体的にどんな役職に就いていたのか知らない為、他者に誇る事は出来なかったが
どんな仕事をしていてもにとっては誇れる自慢の父母だった事に変わりはない。
それに、大長秋を勤める呂家に嫁げた姉のお陰か家の後見人としても立ってくれた。
これで自分がどんなヘマをしても、残された兄や弟達の将来は安泰だ。
今年17になる少女がそう覚悟を新たにした時、前を歩く呂勝が足を止め顔だけ此方に向けて到着を告げる。
「中には面会者を待たせてある、私は立ち会わぬが立会人として信の置ける者も待たせてある」
「はい」
「話が終わった時は立会人に断り、そのまま戻るといい」
「ご丁寧に有難うございました」
袁紹のいた謁見の間を閉ざす扉には引けを取らないが、十分絢爛な造りの扉を前に拱手。
ノックをしようと右手を拳にしたところ、軽く肩に触れる感覚を感じた。
「――呂強・・さま?」
「よく、これまでの道のりを一人で参られた・・・永殿や董氏殿も誇らしいだろう」
「あ・・・えと・・」
「ご自身で決めた道とはいえ此処は貴女に相応しくはない・・だが貴女ならば必ず乗り越えられる」
「・・・・」
驚いて呂強を見上げたら、此処に来るまでの尊大さから一転。
憐憫に溢れた表情になるや、労うような、誇らしげな顔でそう言ったのだ。
口振りからして父母の事も自身がどんな風にして此処まで来たのかすら見通してるかのような・・
でも不思議と、すんなり呂強の言葉を聞く事が出来た。
偽りを言っているようには微塵も感じなかったから。
気になる事も言っていたが、それについて考えるより先ず
呂強が自分の事や家の事に親身になってくれている事が頼もしかった。
ただがむしゃらに進んで来た鳥が、一時だとしても羽を休める枝を見つけたかのような
そんな安心感に包まれ、呂強にもう一度拱手するとは絢爛な扉をノックした。
魏帝の徒花
2019/4/3 up
登場人物が増えますねえ(・∀・)後宮と区別する為袁紹の所は、女性たちの住処を宮、と表現しておきました。
正史では宦官はもう2000人近く袁紹に殺害されたので、多分誰一人として生き残ってはいないですよー。
正史の呂強さんも『十常侍』の1人で、正しきを説く少ない常識人でしたが同じ十常侍の偽告発に遭った後自害してます。
この話では自害は免れ、何との双子の姉、昱の舅として登場させました(*'▽')色々と関係図が複雑になりそうです(笑)
正史では宦官はもう2000人近く袁紹に殺害されたので、多分誰一人として生き残ってはいないですよー。
正史の呂強さんも『十常侍』の1人で、正しきを説く少ない常識人でしたが同じ十常侍の偽告発に遭った後自害してます。
この話では自害は免れ、何との双子の姉、昱の舅として登場させました(*'▽')色々と関係図が複雑になりそうです(笑)
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