魏帝の徒花

起ノ章 4章

4章 4-1話

立て続けに袁紹軍の猛将二人を打ち破った曹操陣営。
一先ず戦況が一段落し、曹操軍は陣営を前進させる考えで軍議も解散となった。

軍師を務める荀攸としては、少し面白くない心境だ。
意図せずだが、延津の戦いですら黒山賊の動きがきっかけとなり猛将を破ったのだ。

これでは軍師の名折れである。
通常であれば何らかのペナルティとして罰則が付けられても何らおかしくない結果。
だが曹操はそれをせず、寧ろ荀攸の正確な判断を誉めた。

またも黒山賊の輩を上手く使い、囮としたのだなと感心までされた。
事実は異なるが、無意味に正論を告げても吉と出るとは限らない。
なら今回だけは黒山賊の者達に花を持たせておこうと判断。
あの混戦の中、正確な指示を飛ばしたのは黒山賊にも存在していた。

輜重を倒して壁を作るというのは中々の機転で、結果彼らの命を守った事になる。
白馬の地で指揮したのもあの頭らしき人物だと考えれば得心が行く。

「おや、荀攸殿もそんな顔をするんだね」

知らずに刻まれた眉間の皴を、さり気なく指摘され、ハッと顔を上げた荀攸。
その視線の先に映ったのはもう一人の軍師、郭嘉だ。
何処かへ出かけているというのは聞いている、つまりその用件とやらが済んだのだろう。

「別にどうもしません・・郭嘉殿は今まで何処へ行っていたんです?」
「・・少しね、旧友を見舞っていたんだ」
「旧友・・・ですか、見舞いと言う事は臥せっておられるんですね・・」
「うん、まあ・・もう天に昇られた方々だから今頃は元気に過ごしていると思うよ」
「あ・・すみません、気が付きませんでした」
「構わないよ、それでこそ荀攸殿だ。気遣いを忘れてしまうくらい今君の脳内を占める者がいるんだろうね」

戻って来た郭嘉に幾つか質問する事で息をつき、普段と変わらない表情に戻していく。
その過程で郭嘉の尋ね人は既に故人だと、話の流れで悟った。

過去今までの間、郭嘉が旧友を訪ねて来たという話を聞いた事は無い。
要するに、今までのように許都で過ごしている時は訪ねに行けなかったのだろう。
自身の事を広く話さない郭嘉の事だ、今荀攸と会うまで誰にも話した事は無いんだろうと荀攸は推測した。

状況は?と自然に話しを変える郭嘉には不利な戦況は未だに変わらず、前線を押し上げる処か実際は後退させられている。
包み隠さず正直な説明を荀攸は告げた。
ここで虚勢を張るのは得策ではない、軍師として状況を把握するのはとても大切なのである。

「確かに今が一番苦しい時かもしれないね」

荀攸から戦況を聞いた郭嘉、この辺の地図を広げながら同意した。
陣容は既に官渡の砦にまで追い込まれ、後退させられている。

更には兵糧も尽き掛けており、一部の兵卒や足軽クラスから袁紹軍へ内通し投降する者まで出始めている。
何とかもたせているが、下の者達の精魂は尽きようとしている。
今、荀攸の叔父、荀彧も曹操から届いた書簡を受け取り返事を書きに行ったところだ。

そして帰還した郭嘉は、将来を見通す目で地図を眺めたり棚に並んでいる書物・・ではなく地図を取り出して眺めている。
策謀に優れた血縁の出である荀攸も、郭嘉の事はかなり一目置いていた。
荀攸より一回り若い軍師だが、時勢を読み解く事に長け、己の審美眼のみで生き抜いて来たような者。
始めは袁紹に仕える為訪ねたそうだが、謁見するなり袁紹の人と成りに失望し都を去った過去もある。

その郭嘉を荀彧が推挙、許都へ現れ曹操と謁見するなり二人は互いに互いを気に入った。
以降郭嘉は常に曹操と共に出陣し、彼の為に献策と進言を行っている。

「一部の者が懸念する、江東の孫策の動向ですが・・」
「あの若き虎の子が我らの留守を攻める事は無いと思うよ」
「・・それはつまり彼自身を取り囲む状況が理由ですね?」
「流石荀攸殿、鋭いね。彼は江東一帯を驚くべき速さで平定した・・その為に行った粛清も強引だったと予想される」

近いうちに暗殺される可能性も高い、だから此方を攻めている余裕はないはずだ。と郭嘉は告げた。
意見を口にしつつ郭嘉の手元を見ると、新たに広げられたと見える地図は江東を描いたもの。
その事からも郭嘉は江東の動きも視野に入れていたのだと分かる。

何とも広い視野を持っている青年だ。
この若さでそのような慧眼が備わっているとは・・まさに軍師となるべくして生まれたのだなと感じる。
彼の慧眼がなければ、呂布を狩る事も叶わなかったばかりかもっと早い段階で自分達の軍は袁紹に負けていただろう。
数年前に彼が袁紹に仕官していなくて良かったとすら思った。


一方で荀彧の姿は私室の中に在った。
手には広げられた書簡が収まっている。

「珍しく父は弱気になっているようだ」

書簡に目を通す荀彧へそう言葉を足したのは、主の子息、曹丕だ。
何を隠そうこの書簡を荀彧へ届けに来たのが曹丕なのである。
実の息子を伝令兵の如く使うとはとシニカルに笑ってはいるが、少し嬉しそうにも見えた。

確かに曹丕の言うように、書簡の文面は退却を検討しているという内容で
あの曹操が弱腰になっている事を窺わせた。

だが今の現状を鑑みればその判断も妥当と感じる。
現在は兵糧も尽きかけているし、畳みかけるように投降者も出ているばかりか
疫病のような物も流行り始め、体調を崩す者に最悪死に至る兵士も出てきている・・
こんな状況で大軍を擁す袁紹軍と戦い、戦線を押し上げる事など普通に考えれば無理難題だ。

だがここで引く決断を荀彧は支援せず、表情も深刻そうではない。
そんな軍師兼知己の男の横顔を眺める曹丕。
涼やかな容姿に迷いや苦悩の色は見えず、ただ静かに静観しているように見えた。

「この窮地に瀕した今も、何やらお前には考えがあるのだろう?」
「ふふ・・流石ですね子桓殿、殿は撤退を視野に入れて居られますが・・・我々はここに留まるべきだと私は考えます」
「我が軍が壊滅させられる懸念があってもか?」
「はい、ですが今はもう少し状況を静観すべきと判断しました・・今楽進殿に袁紹軍側の内情を探って頂いています」

もう少し状況に変化と、此方が動くに値する決定打を見極める為
この状況に耐え、袁紹軍側の動きを見極めたいと暗に荀彧は語った。

とは言っても、長くはもたないだろう。
既に曹操の陣が置かれた官途は、間近まで袁紹軍に肉厚するのを許し
櫓からの弓攻撃で被害も出ている・・辛うじて于禁の指揮で持ち直してはいるがそれも長くはもたない。

荀彧の懸念は、既にこの許昌付近の県や郡にも向けられていた。
袁紹軍は恐らくこの許昌近くにも進軍して来ている。
未だ許昌周辺は曹操に帰順しているが、苦しい戦況は聞き及んでいるはず・・・
今そこを攻められれば、曹操に反旗を翻す県や郡も出て来るだろう。

仮にそうなったとしても、退却をする考えは荀彧の中に無かった。


++


それぞれの思いや思惑が巡る中、赤い地平に朝日が昇る。
その光は少しずつ地上を照らし出し、見る者に様々な気持ちを抱かせた。
篝火で明るさを維持していた常山郡の16人も、それぞれが複雑な思いで赤く燃える太陽を見つめている。

ついにはあの後戻って来る者が現れなかったのだ。
七人いた待ち人は二人が戻り、内二人の死亡を確認・・・
残る三人の生死が不明なまま無情にも朝は来た。

しかし希望はある・・黒山賊を率いる頭領、張燕は無事だったのだ。
武将で将軍クラスの者は今の所帰還した白繞のみだが、それでも何とかなるだろう。

ここで張燕は決断しなくてはならない。
待つ事はもう諦め、改めて残った者達と話し合うのだ。
黒山賊としてまだ動くのか、それとも解散し各々の道へ進むのかを。

「皆、中へ入れ・・少し休んだら話し合いを開始する」
「張燕殿・・・まだ、孫軽や王当に杜長殿が戻っていません」
「・・・奴らは立派に戦い、死したのだろう。だからと言って我々は立ち止まってられん」
「少しでも生きている可能性があるなら、信じて待つべきではないんですか?」

静かに指示を出した張燕の声に、ずっとここへ続く坂道を見つめていた者達の肩が揺れた。
誰よりも彼らの帰還を願っていると思った張燕の、諦めたような言葉に。

傷の重かった白繞だが、あの後女中や仲間達に手当てしてもらい窮地は脱している。
が、念の為にと縁側の上に寝床を作り其処に寝かされた状態で仲間の帰還を待っていた。

そんなところへ告げられた張燕の言葉。
これには黙ってられずに上半身を起こし、縋るような目で張燕を見ると言葉を発した。
白繞は諦める訳に行かなかった、何よりも自分に対し思いと信念を託して討たれた珪固や干毒の為にも。

「貴方を守り、希望だと話して俺を逃がす為討たれた古参の二人の思いは貴方には届いてなかったんですか?」
「・・・・白繞・・」
「干毒殿は言っていました”俺達みたいなならず者に居場所をくれた頭領や仲間達を守ってくれ”と!」

仲間を生かし、且つ己も生きる事・・その事に気づけた今の俺には干毒殿の言葉が痛いほどわかります!
賊軍だから、などという呼び方や形容なんてものは関係ない。
世の中から煙たがられ、嫌われる自分達には住む場所も居場所すら無かった・・
世間を恨むしかなかった自分達を集め、居場所を作ってくれた張燕や張牛角は尊敬すべき人間で何を置いても守り抜く相手なんだ。

「貴方がこの『居場所』を失くすというなら、俺は何としても阻止します!それが託された二人の願いだから」

今まで感情すら微塵も感じさせなかった白繞の真っすぐな言葉は、自然と聞き手の仲間の心を打った。
自分達が守りたいもの、守らなくてはならないのはこの『居場所』なんだと。

人の近寄らない山の上ではあるが、ここには今日まで過ごした多すぎる思い出がある。
初めて訪ねて来た日、張燕に拾われて此処へ初めて来た日など様々な思いが一気に巡る。

仲間と稽古に励んだり、時にはケンカをしたり。
その度に笑い合って仲直りした尊い時間と大切な日々。
自分達は確かにここで何ヶ月も何年も共に生活し、家族以上に絆を深めたのだ。

初めこそ他を生かす事ばかりに明け暮れ、過去何人もの仲間を失った。
袁紹軍との戦いにも明け暮れたが、結局倒す事は叶わず、犠牲が増えるばかりだった。
そんな日々の中、いつの間にか人間らしい感情・・仲間を大切に思う心を失くしていき
人として当たり前の感情を、抱いてもいいんだよ、恥じる事なんてないんだという事もつい最近教わったんだ。

漸くそれを自分達の中で赦す事が出来るようになってきたというのに
色んな事を教わり、得られたこの場所を失くすなどあってはならない事だ。
白繞の言葉は張燕の心に痛いほど届いた・・同時にこのまま賊軍としてしか生きれないのだろうかとも感じていた。

どちらも貫きたい信念があり、平行線のまま結論が出ないかと思われた時
それを打ち消すような急展開が起こった。

「ったく・・おめぇら、どっちも頑固だな」

真剣な二人を茶化すような言葉が、緊張感に満たされた庭に響く。
この状況の中、頭領と将軍クラスの白繞に意見出来る者は限られる。
古参の干毒、珪固、杜長であれば可能と目されるが杜長以外の二人は既に故人。

では誰が?と皆が声のした方を窺い見る。
その瞬間、其方に居る人物を見た全員が喜びと驚きに湧いた。

信じられない者達は暫くその場に固まって凝視。
しかし凝視したのは一瞬、すぐに喜びと色んな感情がないまぜとなって言葉に変わった。

「――孫軽!」
「孫将軍!」

朝日と共に帰還を果たしたのは、生存を諦めそうになった武将。
傷だらけではあるが、此処まで戻れるくらいの力は残っていたようだ。
誰しもが喜びを溢れさせ、孫軽に駆け寄る。

そうする事で、孫軽が何かを背に背負っている事に気づいた。
珍しく駆け寄った張燕が孫軽の頭をわしゃわしゃさせ、そして気づいた。
何か、と言うのは傷だらけでぐったりした人間。
何者だ?と観察しているうちに張燕はハッと気づいた。

「王当か・・?」

静かに問うたのは一抹の不安がよぎった為。
呼吸は弱々しく、生きているのかどうかパッと見た限りでは判別が付けられない。

背負ったままの孫軽に確認すると、彼は力強く頷いた。
孫軽がポツリと話したのは、これまた悲しい知らせだった。

船着き場で張燕を逃がした後、包囲された孫軽と杜長。
だが二人の武術で袁紹軍を手早く斬り伏せ、包囲を解く事に成功した。
その後杜長の指示で孫軽は1人近くの森を抜けて延津の様子を偵察しに行った。

そこで見たのは、袁紹軍の壊滅と討ち取られた文醜の死。
中でも驚いたのは袁紹軍とは違う青い様相の者達が、手厚く何者かを葬る姿だった。

「指揮官ぽい男の指示で・・・干毒殿と珪固殿、雲鶴(一番最初に討たれた仲間)が手厚く葬られてた」

仲間達は延津の地、道祖神の横へ並ぶように葬られたのだと孫軽は話す。
驚きはしたが、仲間を葬ってくれた事には素直に感謝し
一先ず杜長の待つ船着き場へとUターンした。

王当とはその途中で再会したのだとか。
絶望視していた仲間との再会に力を貰い、対岸へ渡る為の船を確保しているはずの杜長の下へ急いだ。
しかし・・・到着した二人を待っていたのは、信じ難い光景だった。

船を確保しに行こうとしたのか、船着き場の柱に凭れるようにして
孫軽の師であり、兄のような存在だった杜長が事切れていた。
別れ際傷など負った風には見えなかったはずの杜長の腹部からは血が流れた形跡があり
座り込んだ体の周囲にも血が流れ、血だまりになっている。

悲しみと驚きで言葉を失う孫軽と王当。
杜長ほど強い人間を知らなかった、師と仰ぎ、兄と慕い・・共に過ごし駆け抜けて来た。
だが今、その杜長は目の前で力尽き、既にその魂は天に昇った後。

孫軽が誰よりも杜長を慕い、憧れていたのかを知る王当は
杜長の死を見た孫軽が我を忘れ、取り乱し、泣き叫んでも受け入れてやろうと決め傍で見守った。
取り乱す事を予想したが、意外にも孫軽はそうなる事も無く目を瞑り祈りを捧げる仕草だけをした。

王当が何故傷を負ったのかと言うと、祈りを捧げた孫軽を見ていた時
船着き場の左側に位置する森の方から殺気のような気を感じた。

「なるほど・・一瞬隙を突かれた、という事か」
「ああ、王当が庇ってくれてなけりゃ俺もあそこで死んでたな」
「・・・よく無事に戻ってくれた」
「取り敢えず王当が気が付いたらでいいか?」
「ん?・・・ああ、覚えてたみたいだな 分かった先ずは皆休め」

背を見せた隙を、敗残兵の袁紹軍に襲撃されたのだと報告した後
常山郡に戻った際には話したい事がある、と別れ際言っていた張燕の言葉について孫軽は触れた。
あの状況でよく覚えていたなと感心し、庭に出たまま夜を明かした仲間達へ一先ず寝て来いと言いこの場を治めた。

長い夜は明け、彼ら黒山賊にとって今後の在り方を左右する重き戦いは終止符を打つのだった。


魏帝の徒花
2019/3/30 up
また結びをどうするか考えつつ書いてたら長くなっちまいました!
取り敢えず此処で白馬・延津を巡る戦いは一段落します!
次からは官渡の戦いに向けて進めて行けたら良いなーと言うのが管理人の理想です(´_ゝ`)
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