魏帝の徒花

起ノ章 2幕

2幕 2-4話


「有難うございます」

そう囁くように口にし、荀彧は来た道を戻って行った。
1人この場に残り、その背を見送る荀攸。
彼が頼まれて欲しいと託した言は、ある程度予感していた物だった。

叔父である荀彧自身も命を懸けた出来事だっただろうに・・
つくづくお人好しな人だ。
血を血で洗い流すような凄惨な事件が起きたあの日からずっと。
かくいう荀攸自身も、取り立てられるまで董卓の陣営にいた過去がある。

董卓の暗殺を考え、実行したが発覚し投獄された事。
処刑寸前で董卓が王允らの画策で謀殺され、助け出された過去。
その後、曹操に仕えていた叔父、荀彧の言から荀攸の事を知った曹操からの呼び出しに応じ今に至る。

尚書府に任じられた荀攸は曹操が袁紹と並んで中原の二大勢力に至るまでを見て来ている。
帝を保護する前の出来事も、保護してから秘かに熾り、またもみ消された出来事全てを。
あの件で処断された血縁、並びに関係者は少なからず生き延びた者も居る・・
今しがた荀彧から託され頼まれた事もその生存者に関係していた。

仕えてから改めて分かる事もある。
普段は温和で部下の意見も寛大に聞き入れる曹操が偶に見せる冷酷な一面に。
あの事件も、日頃隠され理性で抑えられていたあの激しさが表に出たからこそ起きた悲劇。
だが、例え発端が身から出た錆だとしても・・何も知らずに生まれ、健気に生きる者に罪はない。

「ふう・・仕方ないですね、俺も覚悟を決めましょう」

短く息を吐き出し、首元まである衣服の襟を崩すと
僅かに砕けた口調で呟いてから今度は伝令書を書かず、自らの足で面会をする相手の元へ向かうのだった。


++


季節は巡り冷たい氷は溶け、暖かな3月の下旬を迎えた。
212年初めの1月中旬に出発してから2ヵ月と少しを過ぎた頃、はその眼に広がる平原を見た。
奥深い山岳地帯の常山郡から共について来た白繞が、小声で現在地を知らせる。

黄河を挟んだ汝南の地で、延津と呼ばれる地だと。
となると目的地は程なく到着出来る距離に在るという事だ。
これを聞き、漸くは一息付けた。

休憩はある程度挟んだが、普段歩いて場所を行き来するという事を中距離でしか体験した事のないには
丸一日ほぼ歩き通しで、休憩も僅かな時間しか取れず歩くと言うのは初めての体験だ。
2ヵ月近くを歩き抜いた足はガクガクと震え、履いている履物も底が擦り減っている。
皮で作られた簡易な靴だ、擦れて彼方此方が破れ恐らく帰りは持たないだろう。

だが休んでいる暇はない。
この周辺の農村を見る限り、戦は近い。
注意を引くなら戦が起こって間もない段階の方が目を引きやすいのだ。

あまり時間が経過してから紛れ込もうとすると、戦場は既に混乱し、乱戦になっている可能性が高い。
そうなると目を引くどころか自身が本当に戦に巻き込まれ、死んでしまうだろう。
だからこそ、早めに移動し白馬の地へ近づいておく必要がある。
疲れ果てているはずの足に鞭打つように立ち上がると、気配を消し、突然現れるようにして目を引く事が出来る延津方面から近づく事にした。

一方で付き従うように歩く白繞は、延津に辿り着いた時から加わっている気配に気づいていた。
敵意も何も感じさせない、ただついて来るだけの気配が複数・・・
此方を伺っている風もない・・始めは黒山賊の残党狩りを企む奴等かと構えたが、一向に襲い掛かってくる様子もないのだ。
ただ・・・とても不気味ではある・・前を進むは全くそれらに気づいてる風もない。

まあその辺はもただの民、という事なのだろう。
しかもまだ16だ、本来であれば親の庇護のもと生活しているはずの年齢。
何不自由なく暮らしていただろうに、何が起こるか分からない時代だな・・・

1人思案しながら歩を進め、増えた気配を気にしつつを見失わぬよう後に続く。
やがて数寸先に陣容を構えた劉延の天幕が見えて来た。
は向かい来る顔良からよく見える天幕の辺りから注意を引く作戦でいる。
その頃になると今まで付近にあった気配が消えていた。

正体を確かめる間すらなく、何とも消化不良になる白繞。
まあ無事が策を実行出来た後にでも、孫軽に探らせるとしよう・・。

「・・この辺りでいいでしょう」
「分かっているとは思うが、難しいと判断したらすぐここを離れろ」
「ええ」
「退くのも勇気だ、ただそうならぬよう援護はしてやる」
「はい、ありがとうございます。白繞さん」
「・・・準備が整ってるなら作戦を開始だ」

思案を終えたのと同時に、も足を止め、天幕の陰に身を隠した。
と同時に羽織っていた外套を脱ぎ、道士風の服が現れる。
それを策の実行を告げる合図と受けた白繞は、改めて頭領より託された言葉で念を押す。

真っ直ぐさから無理をしそうなの性格を妙に理解している頭領からの言伝。
仮にも雇い主たる所以なのだろうか?
指摘を受けたも素直に頷くが、その表情は真剣そのもの。
だからなのか、気づけば白繞も困った時のフォローはしてやると口にしていた。

ハラハラさせられるところもあれば、16とは思えない策を思いつく。
無鉄砲ではないが時々愚かしいほど真っ直ぐな性格をしており
それでいて不思議と手助けしてやりたくなる雰囲気を持っている少女。

「策の実行に移ります、これより私は曉の南郡太守の娘として劉延殿に面会」

白繞さんはその付き人として同行して下さい、とは淀みない声で策の内容を説明。
の言う注意を引く策は、敢えて戦場と化する前の陣営に飛び込み
自分の家柄と亡き父の職を使って劉延と面会し、話がまとまったタイミングで上手く天幕から現れ袁紹軍に自分の姿を目撃させる事。

曹操軍が明確な敵方じゃないにしろ、危険な場所となる所へ自ら踏み込むのだ。
大の男であっても恐怖心を抱くような事を、年端も行かない娘が平然と言ってのける。
これも乱世という世情がさせているのだろうか。

策の流れを確認し終えると、しゃがんでいた体勢から立ち上がり
背筋を伸ばしてから天幕の入口に立つ、兵士らの元へ白繞を伴い歩き出した。

当然目敏い兵士らにたちは発見される。
さあ、ここからどうが策を成功させる為 南郡太守の娘を演じるのか
付き人として同行する傍ら、秘かに楽しみにしている白繞であった。


++


一方こちら、白繞が気配にだけ気づいていた謎の集団サイド。

「見ましたか?于禁殿」
「ああ、確かに黒山賊の残党だったが・・・・」

会話と名前から分かるように、謎の気配の集団は許都より遣わされた楽進と于禁である。
二人は僅かな手勢を伴い、影のように黄河に沿って東進し延津へ到着していた。
そこで荀攸の睨んだ通りに自分達同様影のように動く人影を確認、敢えて目測する為ギリギリまで近づいていた。

別動隊と聞いていた故、もう少し人数が居る事を想定していたのだが近づいてみて驚いたのは言うまでもない。
荀攸が囮軍扱いで動いて貰おうと判断した黒山賊の別動隊は、たったの二人だったのだ。
後ろを歩く男は確かに黒山賊の残党を感じさせる歩き方だったが、前を歩く人物はとても小柄で、華奢。
あれはまるで、少女?のような風体をしており、この事は酷く楽進と于禁を動揺させた。

「どのような経緯で黒山賊の残党と行動しているのかは知る由もないが、まだ子供だったな」
「ええ・・しかし、何の考えなしに現れたとも思えません」
「荀攸殿も何か確証を以て囮軍に使うと仰られたのだろう、これは我々に与えられた任務・・軍紀は乱すべからず」
「分かりました、私はただ飛び込むのみです」
「恐らく彼らは必ず動く、我々が動く時は貴殿に任す。楽進殿。」

相手が子供であっても任務は絶対、考慮はするが奇襲がメインの作戦成功が最優先事項。
戸惑いながらも于禁は任務が優先だと言い切った。
楽進も戸惑いはしたが、于禁の任務優先には賛同した。

その傍ら、延津方面の天幕の陰に身を顰めた少女と思しき風体の人物を気にしていた。
どんな目的で現れ、何ゆえ袁紹軍に不利になる動きをしようと決めたのか・・。
此方の奇襲作戦が開始されれば、間違いなく乱戦になるし危険極まりなくなる。
そうなった時、何となくだが少女の身柄だけは保護しなくてはと楽進は感じていた。



「貴様ら何者だ」

天幕を守る立場の兵士は、この戦時下に現れた見知らぬ訪問人を警戒するように咎める。
見たところ兵士にも間者にも見えない風貌の・・・・

「私はある知らせを持って此方を訪ねた南郡太守の娘、東郡太守に置かれましては劉延殿に伝えたい言があります」
「南郡太守の娘・・?それを証明する物はあるのか?」
「父は謀略により命を落としました故、私の身分を証明出来るものはこれなる証のみでございます。」

下げていた顔を上げたその訪問人、近くで見た事で分かったのはまだ年端も行かぬ子供だという事のみ。
父親は殺され、付き人だけを連れて逃げて来た・・と言う事か?と訝しむ兵士。

南郡太守・・は確か健在だった気もするが、すぐ決断を下すのは早計だと判じ
娘が差し出したその証たるものを手に取る。
手に乗せられたそれは、少し重さのある札のような板・・・

「これは確かに太守の証・・・だが貴様、これは」
「はい、お察しの通り私の父は 袁紹が治めし曉なる都の南郡太守にございます。」

躊躇うそぶりもなく差し出された証は、自分達の主がこれから対する相手が治める地の太守のもの。
これには受け取った兵士も表情を険しくせざるを得ない。
どんな理由で敵軍の太守の娘がこの天幕を訪ねたのか、この兵士だけでは考えるにも限界があった。

仕方なく兵士は見張りをもう一人の兵士に任せ、近くの天幕へ入ると
次いで出て来た時には女性を伴って現れた。

「私だけでは判断する事が難しい、この女官から身体検査を受けて来い」

なるほど、と内心では納得。
武器を持っていないかを確認したいのだろう。
つまり、劉延殿と面会させてもらえるようだ。

女官のいた天幕に案内される傍らで、白繞が兵士の身体検査を受けている。
いざ天幕に入ると、相向かいに立たされ衣服の上から女官が触れて行き
上着を捲るよう指示し、服の内部にも武器を隠していないかを確かめていく。

見た感じ私と歳が近そう、と言うのが女官を見た時の感想。
やはり若いうちから決められていたのだろうか?

それとも自ら志願して宮仕えを決めたのだろうか。
検査を受けながら女官の顔を盗み見る。
仕事だからだろう、黙々と手を動かす顔に表情は無い。

自身も奉公の仕事をしていたが、彼女ほど無表情で勤めてはいなかった。
仕事をしてる時も孫兄は来たし、軍の何人かが出入りしては食べ物を用意し
皆さんとても賑やかだからそれを見ているだけで私も楽しかったし、辛い事だと一切感じなかった。
同じ仕事でも主が違うだけでこうも変わる物なんだろうか。

と考えている間に、身体検査は終わりを迎えた。
もう宜しいですよと幼い声で告げられ、も有り難うと礼を言い天幕から出る。

「怪しいものは持っていたか?」
「いいえ、大丈夫でした」
「よし、もう下がってていいぞ」
「はい」

天幕を出たタイミングで待っていた兵士と白繞を見つけた。
すぐに続いて出て来た女官と短く言葉を交わすと
女官の少女を下がらせ、らについて来るよう兵士は合図した。

布陣内はシン・・と静まっており、互いの息遣いしか聞こえない程の静寂に満ちている。
それから、戦の前と言うのもあってピリピリと感じる緊張感も痛いほど伝わって来た。
初めてこのような空気の中に身を置く、微かな息苦しさを感じていた。

数十歩の距離で天幕の一番奥に在る、一際大きさのある天幕の前に辿り着く。
らを案内してきた兵士が、この天幕の警備をしている兵士に耳打ち
耳打ちされた兵士も怪訝そうな顔で此方を見るが、やはり独断で決める事は規律に反する為
一度天幕に引っ込むと、数分した後再び出て来た。

「劉延殿が話を聞いて下さるそうだ、が、戦も近いゆえ手短に済ますといい」
「はい、ご好意有難うございます」

出て来るなり仕方なさそうな顔をして面会を許可。
だが何となく此方を気遣っているようにも見えたので
取り次いでくれた兵士と案内してくれた兵士に対し、素直に感謝を伝えた。

同行してくれている白繞に目配せし、2人してゆっくりと天幕へ入る。
正面と数メートル先に、長い卓を挟んだ奥に座る人物が目に入った。
天幕の壁際に沿って5.6名の護衛兵たちが起立して並んでいる。

入って来たらに気づいた奥の人物から、どうぞこちらへと招かれ
招かれるままに天幕内を進み、長い卓を挟んで東郡太守劉延と向かい合った。

「謁見をお許し下さり有難うございます劉延殿」
「何やら急ぎの要件と見受けられたのでな」
「私は曉の南郡太守の娘、と申します以後お見知りおきを」

思い切って名前を名乗って見た所、微かにだが劉延の目が見開かれた。
やはり広まっていたのだろうか・・曉での内乱で南郡太守の永と董氏が死亡した件が。

手短にと言われたのもあり、名乗った後すぐに本題へ向けた話を進めていく。
曉の内乱を制した袁紹が、ついに曹操と雌雄を決するのを決め
各地に檄文が送られ、早くもこの地に先行部隊が放たれた事などを報告した。

途端にざわつく天幕内、護衛の兵士達も互いの顔を見合わせそわそわし始める。
そんな兵士らを劉延が落ち着かせようとするより先に
曹操殿の陣営にも優秀な軍師がおられるはず、皆さんの所にも援軍が差し向けられているはずですとが言葉を発した。

「お主・・袁紹が治める郡の民であろう?何ゆえ主に不利となるような報告を?」

援軍は来る、だから慌てず迎え撃って下さい。そう冷静な口調で告げた少女に対し
当然ながら劉延は疑いはするが、同時に沸いた疑問をすぐ向けて来た。

曉の南郡太守の娘が君主を裏切ってまで自らの天幕に現れた理由が気になる
問いの答えとして、机上の空論でしかないがは袁紹に自分の父母を殺された事を話す。

「理由は知らない・・・けれど何の罪もない民を手に掛けていい訳がない。
私はこれを以て袁紹殿に問いたいのです。
民を謀殺して得られる功など、何になりましょうか。
民を導き、守り、手本となるべき人間が悪戯に民の命を奪うなど赦されて良い訳がない」

そう問う為に私はこの地へ来たのです。
真っ直ぐ劉延に向けられた言葉に、ざわついていた天幕は水を打ったように静まり返った。
年端も行かぬ子供が、世の無常さと父母を奪われた悔しさをストレートに言葉にする様は
居合わせた者を惹き付け、その言葉は彼らの胸を打った。

だが此処は曹操軍の天幕・・この少女はどのようにして今の言葉を袁紹にぶつけるつもりなのか。
他の者を惹きつけた少女にそれを見出そうとするより早く再び天幕へ外の兵士が駆け込んで来た。

「劉延様!敵襲にございます!」


魏帝の徒花
2019/3/6 up
楽進の武器は初登場の時のやつが好きです(・∀・)ちょっと色々掻い摘んで書きましたが漸く事態が動きそうですな
色んな展開を丁寧に書いて行けるよう気を付けつつ、花粉と戦います。
劉延さんのいる延津ですが、管理人のイメージが既に陣容を敷いた場所にいると考えて書いたので天幕の集まりになってます。
きっと本来だときちんとした塀に囲まれて門とかも閉じられてると思うんですよ・・それだと入れて貰うまでに時間かかるかなーと思いましてこの仕様にしました。
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