「さあ、演技の練習です。思いっきり笑ってください」そういわれて まわりのみんなは 笑い出す。でも笑えない、なぜ笑うのかを考えないと 私は笑えないし、笑いたくない。「あ これは 腹筋を鍛えるプログラムです、さあ 思いっきり笑ったふりをしてください」これなら 笑う。この違いは 大きいのだ。

喧嘩のシーンなんかもそうだろう 「さあ もっと怒って」といわれても 簡単には怒れないだろう。なぜを しっかりつかまなければ。「マッサン」の広島のお父さんが きもをつかめ といってたが それだと思う。なぜをつかんでないで 怒ったふりでは 何回も練習してると 疲れてきます。

 

私は 芝居を見に行ったりするのが 苦手だ。出演者がチケットを売って 客席を作った芝居なら よけい苦手だ。送り出しというのがあって 出演者がロビーに出てきて ありがとうございましたというのだけれど 自分の知り合いとの会話になっていて だれも知り合いがいないで 見に来た私は だれにも ありがとうともいわれないで すーとかえってゆくのです。聞こえてくる声は「よかったよ」「かっこよかったよ」「よくセリフ 覚えたね」などなど。「めっちゃ つまらんかった」「金 かえせやね」「おいおい それはいいすぎやろ でも 時間はかえせやね」「おいおい 直接いうなよ、そういうことは 本人のいないところでいおうぜ」という声は聞こえてこない。だから自分がコンサートしたときの 送り出しが怖い、怖いので送り出しでギターを抱えて歌い続けるようになった。送り出しがこわいのです。

 

おとなが へらへらしていたら 子供は こんなもんでいいんだと 思って なめてかかるだろう。大人が真剣だから 子供も真剣になってゆくのではないか。

おい、大人、今 真剣か? 子供、そんなに へらへらしてるんなら 親をつれてこい、親に真剣になってもらう。

 

 今日、演出が稽古で 世阿弥の花伝書の話をした。すごくためになる。

 「観客の予想を上回ることをしないと 感動はつくりだせない。

 たとえば、悪役の人が捨てセリフをはいて 大声で笑っても、観客は笑うだろうなって 予想できるから つまらない。

 たとえば おみやげをもらった人が 笑顔でありがとうというのは予想できる、ところが ありがとうっていいながら 号泣していたら どうだろう。まさか、おみやげぐらいで 号泣するなんて だれも思わない、けれど、生まれてこのかた おみやげをもらったことのない人が はじめておもやげをもらったら、その心根にうれしくてうれしくて 泣き出してしまうなんてこうもあるだろう。

 たとえば 悪役がめちゃくちゃ やさしい声をだしたりしたらどうだろうか、そのほうが 恐かったりすることもあるだろう。

 こんな風にして自分の役を見つめてほしい。

 こんなことを花伝書には書いてあるんだよ」

そうか、いろいろ考えてみたい。

 芝居は舞台と客席でつくりあうものだもんな。

 よーし、まだまだ やれるはずなんだ、俺でもやれるはずなんだ。43才、心が動く演技がしたい、心が動かないのに 動いたふりの演技はしたくない。

 がんばろう。2004 9 28