1年かければ 歌はうまくなるのだろうか それとも無理なのか・・・いや まだ時間はある。追悼式に参加した遺族の方々のためにも 最後の最後まで挑み続けることが 大切なのだ。見よ このレコードを。東京音楽学校と印刷されている。君の母校で先輩たちが録音したものだ!信時先生の写真もあるぞ、君は直接教えられたっていったじゃないか。頼む、どうか 挑んでほしい、さいごの最後まで挑んでほしい。特攻の若者たちは 最後の最後まで生きようとしたんだ。そのことを 忘れないでほしい。まだ 出撃まで時間はあるんだ!!くらいつけ!くらいつけ!!!

 

15日まで もっと勉強して 遺族の人たちの心に 届けたいと 私は 今 思います。今日 車で走っていて 「だめだ 防空壕に 入ってはいかん!」と いったら 涙が出てきた。そうか あの瞬間 大造は涙を流して訴えたのかもしれない。町を守るとは 町の人を守るということだ。だから死んでほしくない。その涙に みんなが 落ち着いたのかもしれないなどと考えました。まだまだ 先があるはずだ!!

 

舞台での家族。娘の演技を見て 役作りをしました。大好きな家族です。本番の1週間前あたりから ようやく家族が見えてきました。舞台で 女房の方を向いて 倒れました。感謝! 

 

「大造、セリフで 一歩も引かん!!って いってるのに 足がぐらついてたよ」

「わかった、本番では 一歩も 動かないように してみるよ、ありがとう」

共演者の少年が教えてくれたとおりにやりました。もう 24時間経ちました!!

 

ありがたいコメントを頂戴した。私の町内会長についてのコメント

『「お国を守る」と言ったら国体護持、天皇制維持が最重要だった訳ですが、大造さんの「町を守る」は命を守る事でしたね

戦時下の国民が本当に思っていたのは、この環境にあって愛する者を生かす、という一点だったのでしょうね」

愛する者を 生かす。町を 守るとは 町に暮らす人々を 守ること。だから 避難させようとしたんだなって コメントを頂戴して思いました。

あの日から 70年、桑町に暮らす人たちは・・・車の時代になり 郊外のショッピングモールへ。中島飛行機の工場だった駅南が ダイハツの工場にかわり そして今 巨大駐車場のある ショッピングモールへ。

「いったろ、最後のひとりになっても桑町を守るからって。来るなら来い アメリカ。桑町町内会長 蓮見大造 一歩もひかん!この町を守り抜くぞ!」

前橋空襲

昭和20年 8月 5日 午後10時30分、市内4ヶ所に投下された照明弾で空襲が開始され、米B29爆撃機92機により焼夷弾 691トン・破砕弾 17.6トンが投下され、被災面積は全市の22%、

被災戸数は全市の55%、被災人口は全市の65%に及んだ。

 

映像と舞台には大きな違いがあります。それは 役者が感じたことが客席につたわるという 共感です。舞台芸術は 共感の芸術だという演出家もいます。だから戦時中のことを勉強し その時代に生きた人物として 舞台の上で生きることを目指しました。演技バカではなく 役の人物として生きる。稽古の初期段階でカフェジョージで 城治さんに あやまりました。「力不足ですみません」と。でも 途中から 役の人物があやまりたくないといいだしました。ジャズさえながさなければ カフェという言い方さえやめれば 営業は続けていいというところまで がんばったんです、ところが「ジャズのないカフェなんて」と 城治さんは いったんです、私に。それで閉店です。そんな設定に自分で行きつきました。あ、空想の中でですよ。「もう守りきれん」というセリフから守ってきたんだなと考えです。

 城治さんは いわなくていいことをいってしまう空気が読めないところがあって 私たちはふりまわされるのです。新先生の台本を何度も何度も読むとそれに気づきました。カフェジョージのシーンも台本には あやまるせりふもないし 抱き合う指定もなかったので 私は 途中から変化して ああいうことになりました。また抱き合いたくもなかったのです。だって日本男子ですよ、侍の魂が抱き合うことをゆるさなくなっていきました。池辺良さんは映画「青い山脈」(1949)で彼女に面と向かって好きだといえと指定を受けますができませんでした。「日本男子たるものがいえるか!役をおろしてくれ!」といったそうです。それで海に向かって叫ぶという処理になったそうです。

演じるよりも 役の人物として 生きることができたらと 思うのであります。だから 私の台本には 自分のセリフにラインをいれたりしませんでした。他の人たちのセリフがあって それに反応して 私のセリフが存在するみたいなことを考えているので 印なしです。みなさん ありがとうございました。