教育こそ 日本の生きる道
日本の教育の大問題
秀才とは そのことが得意である人です。どこにもたくさんの秀才がいます。
スポーツに長(た)けている子、将棋に長けている子など
各分野で優れた能力を持っています。
時間を惜しんで その能力に磨きをかければ大きな花が咲きます。鉄は熱いうちに打て!
しかし 日本の子どもは落ちこぼれ防止のためにやさしい内容とゆっくりスピードの学習を受けています。
すべての子に同一のカリキュラムを与えることが平等と考えがちですが、これは間違った平等です。
例えれば 10人の子が いつも 全員でまとまって走っています。遅れることも 先に出ることも許されません。
もっと速く走れる部員はその能力を発揮することができません。 速く走れない子には拷問です。走ることが嫌いになります。
現在の日本の教育はこのようなものです。学習指導要領により どの教科も1年間でこれだけ指導すると決められています。
つまり日本の学校教育は秀才を 眠らせ ボケさせ 待たせ、秀才の発達を妨害しています。
学校は秀才の大切な人生の時間を奪っています。
毎日 課される簡単な宿題は秀才たちには苦痛です。そんな時間があるなら先に進むべきです。
やさしい内容とゆっくりスピードの教育が間違っているということではありません。
やさしい内容とゆっくりスピードの教育を必要とする子もいるのですから。
一方 もっと速く もっとハイレベルな学習を受けられる子が存在してます。
子どもに個人差を認めない教育を強制することが大問題だと考えます。
日本の教育問題の原点
150年 続 く「学制」の呪縛 明治5年の発布
日本の教育はドイツの教育制度を手本にした「学制」(明治5年)を発布して以来、基本は変わっていません。
「学制」の目標は一刻も早く欧米に追い付くことでした。それでドイツ式の画一・一斉授業を導入しました。
イスに座る多数の子どもを黒板に向かわせ、教師が授業をする、おなじみの授業形態ですが、
当時、欧米ではすでに画一・一斉授業には 問題ありと認識されていました。
ドイツは 先進国イギリスとフランスに 急いで追い付くために 個人差を無視し、効率的な画一・一斉授業を採用した。
江戸時代の寺子屋教育は 画一・一斉授業ではなく個別指導でした(一部一斉授業)。
寺子屋で 様々な年齢の生徒がそれぞれ各自の課題に取り組んでいたというのが本当の寺子屋の姿です。
例えば子どもから大人まで、武士から農民・商人まで和算を学んでいましたが、その課題は各人異なっていました。
明治の日本が欧米先進国に追い付こうという時代では 画一・一斉授業は少ない教師で多数の子どもに同質の教育が
できる効率的教育制度でした。
しかし 学制発布から150年後の今、日本は先進国になりましたが、
資源の乏しい日本は自らの独創性をはぐくむ教育制度が必要です。
日本の科学研究が世界に追い付いた1930~1950年には秀才が伸びられる教育改革が必要でしたが行われませんでした。
欧米では昔からイエナプラン・プラグマティズム・シュナイター教育・ドルトンプランなど新教育を試行錯誤していました。
飛びぬけた人、勇気と行動力ある人、創造性・独創性ある人、そんな人材を今、社会・企業が求めています。
2020年の今も行われている画一・一斉授業は出る杭は打たれるので、一人一人の子にも 日本国の発展にも 障害物です。
制服(ジャージも)・頭髪規制・ブラック校則は 何のためにある?
当たり前のことですが、画一・一斉授業の主体は教師です! 生徒は「お客」・「聴衆」です。
画一・一斉授業の主体である教師は 無意識に授業でも授業以外でも主体となろうとします。
教師は生活指導と称して 靴から頭まで校則でがんじがらめにします。生徒は言われるままに行動するしかありません。
これは まるで少年刑務所のようです。刑務官は 「それ 違反!」とだけ言えばいいのです、
刑務官は 刑務官の規則に従い、刑務者は刑務官に従います。規則の制定・変更について話し合うことはなく、
刑務官は従わせることと 刑務者は従うことしかありません。その間の手間のかかることはありません。
校則は 普通 生徒会規約として生徒手帳に記載されています。
生徒会は 生徒の自治的組織です。民主日本の民主主義を実践で理解し身に着けることが目的です。
本来 校則は 教師の指導の下に生徒自身が民主的に決めるものです。
しかし 現実はどうでしょうか? 教師が勝手に校則を 決めています。ほとんど生徒総会は行われていません。
校則改正議案を各クラスで討議し、生徒総会で議論し採決する・・・そんなめんどくさいことを、 教師に反論するような
生意気な生徒になることを、教師はしたくないのです。黙って従う生徒が良い生徒と考えているのです。
文部科学省も 現今の教育を肯定していると私は思います。政治がやりにくくなるからでしょう。
以上のような 上意下達の教育は 「学校の主人公は教師である」という錯覚を持たせます。
そして教育本来の仕事から教師を遠ざけます。
生徒は おとなしく授業を受け、おとなしく教師が勝手に作った校則に従えと 教師は不遜な考えに落ち込みます。
これを刑務官教師と 私は名づけます。
刑務官教師の労働量は本来の教師のそれよりずっとすくなくなります。コレやめられません。
多くの校長室には 「創造性を伸ばす」とか「個性の尊重」などと書かれた額があります。
額と正反対のことをやっていることに だれも気が付きません。なんということでしょう。
制服・頭髪などの校則は 個性や創造性を抑え込むためにあるのです。これは教師の仕事放棄にほかなりません。
原因・事情・生徒の心情を考慮せず 「それ 違反!」とだけ言えばいいので 教師の仕事の軽減になり 教師にはありがたいことです。
生徒が悩んでる家族関係、友人関係、経済的困難、自己存在確認、社会と教育への疑問などで生徒と向き合うべきなのに
めんどくさいので教師は逃げます、楽なのです。
いじめを 見たり聞いても教師は無視しがちです。かかわりあったら 多数の生徒から事情を聞いたりして,
とても時間が必要で 保護者面談もしなければならないから。
だから多数の教師は目をつぶることがあります。もちろん 常に真剣にいじめに向き合う多数の教師だっています。
画一・一斉授業と学級定数の多さによる教師の仕事量の多さが 教師を手軽な仕事に逃避させているのです。
教師が真に真面目に仕事をすれば 健康を害し精神を病み、退職するか極端な場合自死に至る。
ある面 教師の逃げは自己防衛なのです。教育現場はそれほど厳しいのです。
視点を変えれば 教師は画一・一斉授業の弊害と加重労働に押しつぶされないために 上記の制服・頭髪規制・ブラック校則を
採用し、少しづつ無意識の内に刑務官教師になってきた。その結果 教師も生徒も追い込まれている。
「他の生徒にできることが なぜできない!」という「うわべ」だけの指導になり、
教師はそれが指導と思い込んでいます。悲しいことですね。
本当は 「他の生徒にできても あなたにできないことがある、他の生徒にできないことがあなたにできることがある」でしょう。
または 「あなたに思いつかないこともあれば あなたしか思いつかないこともある」と生徒の特性を認めるべきでしょう。
画一・一斉授業の行き着くところが 問答無用の制服・頭髪規制・ブラック校則です。
生徒会は民主主義を学ぶための生徒の自治組織です。生徒規則は教師の援助と指導の下 生徒自ら制定するものです。
しかし現実は教師が自分たちに都合が良いように勝手に決めて,生徒に押し付けています。
生徒会の目的と真逆のことになっています。
画一・一斉授業下でも 日本は多数のノーベル賞受賞者を輩出するのですから 画一・一斉授業をやめれば
すごいことになります。 そのような人材が研究者・大学教授となり技術革新・世界的発見を可能にする。
今も150年前の<欧米に追い付くための教育>が行われていていることは日本の未来と日本国民と日本の子どもに
とってとても不幸です.。
画一・一斉授業で待たされ,画一・一斉授業で同質性を、同一思考を要求される日本の天才や秀才たちはかわいそうです。
高低によらず人は己が持つ能力を発揮したとき幸いである。これが天才にも秀才にも全人類にも実現されることを望みます。
秀才を伸ばす、個人差を大切にする、これをしなかった教育が 今の日本の衰退の原因です。
明治時代に欧米に追い付くために金太郎あめのようなのステレオタイプの人間教育が今も行われている。
科学技術的に欧米に接近した100年前に なされるべき教育改革が 今もなされていないことが 今の日本衰退の原因です。
さらに画一・一斉授業は教師による生徒への暴力を引き起こす元凶です。
★すべての教師が上記のようであるといっているわけではありません。上記の傾向が増大しているのです、。
閑話休題
算数・数学が得意なこも不得意な子もいます。 日本では数学が得意な子も不得意な子も同じ内容を同時期に同様に勉強します。
算数・数学問題を1分もかからないで解く子も 60分かかっても解けない子がいます。
教師は当然解けない子にもう一度いや2度3度説明しますので、天才や秀才たちは 待たされます、貴重な時間を奪われます。
次に教師はしっかりした力を付けようとして、今説明した問題と同じレベルや数値だけが異なる問題を全員に与えますが、
天才や秀才たちは もっと高いレベルの問題を解くか、次の単元に進みたいのに待たされます。
天才や秀才たちは毎日毎日待たされることで貴重な時間が奪われ、貴重な柔らかい脳を腐らされています。
ピアノは3歳から、鉄は熱いうちに打て、三つ子の魂百までも、です。
幼い、若いときからどんどん鍛えられても大丈夫な子はどんどん鍛えるべきです。
鍛えられる天才や秀才たちは苦しいのでしょうか、いいえ違います、彼らは楽しいのです。
スパルタ式教育ではダメですが、天才や秀才たちの興味関心を引き出しながら指導するならば、
彼らは喜んで自ら学習します。
天才や秀才たちの脳が固まってしまう前に数学を学んで欲しい・・・塾長の希望!
そして将来大学教授や研究者になって日本と世界の発展に寄与して欲しい。
そもそも本来の教育は民主主義をはぐくみ、子どもの持つ芸術的・科学的・スポーツ的能力を
最大限発揮させることです。
興味関心の差異、学習速度の差異、学習の進め方の差異などを認める教育制度でなければならない。
その教育制度は現在の科学・技術・経済・哲学その他の分野で社会が求める人材育成と共通している。
一斉画一授業をやめなければならない。
すべての子を伸ばす教育制度は 個別指導と一斉授業導と能力別学級編成を 組み合わせたものでしょう。 学級定員の少人数化! 昔 全校生徒300人弱の小さな中学校に勤務していました。1学年が生徒数は90人なら45人×2クラス、生徒数が91人なら45人クラスと46人クラスになりますが、当時の学級定員は45人なので定員オーバーです。 そこで30、30、31人の3学級になります。45人と30人の違いは激変です。 45人学級では歩けないくらい教室は机で一杯です。30人学級では空間的に余裕があり、 そのことが心理的余裕を生みます。 事務処理が軽減し、教材研究や教具にも時間を使えます。生徒一人一人にきちんと向かい合えました。部活の悩みなど話を聞くことができました。 現在の学級定員は小中学校とも40人ですが、良い教育に学級定員のさらなる減少が必要です。 欧米では20数人の学級定員のようです。 |