神武東侵は西暦何年か
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渡辺修一 2023年6月

  神武天皇実在? 
  神武の東侵の有無?
  

  
渡辺算数的計算で東侵の西暦年代を推定する!

         第1章

 神武(じんむ)天皇は九州から奈良県に東侵し 大和王朝の初代天皇になったと古事記・日本書紀(以下記・紀)に書かれていますが、大昔のことなので確かめようがなく現在も未確認・未定です。 金石文があればうれしいのですが ありません。
 本稿では神武天皇東侵年代推定のあと、神武東侵真実可能性の状況証拠を紹介します。
 最後に「神武天皇即位の日を紀元節と定めた」根拠なき決定事情を推理します。

 戦前は支配層により記・紀の内容は「事実」であると強要された。太平洋戦争終戦前に早稲田大学教授「津田左右吉」は記・紀創作説(15代応神天皇よりも前の天皇は系譜も含めて史実としての資料的価値は全くない、その他記・紀に事実でない記事多し)を発表した。政府は昭和15年に彼の著作4冊を発禁処分とした。さらに彼は国家権力によって大学を追われた。太平洋戦争後は今に至るまで津田氏の記・紀創作説が学会を席巻している。 しかし記・紀創作説の見直しがゆっくり始まった。真実の日本史を知りたい。


 神武天皇は神武四兄弟の四男で幼名は若御毛沼命(わかみけのみこと)であり、彼らは「ここ九州(王朝)にいても出世は望めないいから東へ行く」ことにした。その東進が山陰・兵庫県から愛知県に広がっていた銅鐸(どうたく)圏への侵略を意味することを彼らは知っていた。

                               
     神武天皇の東侵

 古事記によると神武四兄弟は北九州から出発し、筑紫の岡田宮で1年、阿岐国(広島県)の多祁理宮(たけりのみや)7年、吉備(きび)(岡山県)の高島宮で8年、計16年滞在した。この長期滞在の理由は弱小軍の補強であったと私は考えています。そして第40図中の破線のように船で大阪湾から河内湖(かわちこ)に侵入し、湖の東端日下(くさか)の盾津(たてづ)に上陸し初めて戦い、銅鐸圏王者長髄彦(ながすねひこ)に負けた。長兄は逃亡中に敵の矢を受け、大阪湾の船中で死亡した。神武らはさらに大阪湾を南下し、紀伊半島の東に回り熊野山地を超えて、奈良盆地に侵入した(この途中二男三男は行方不明になった)。神武は盆地内のまつろわぬ人々を斬って斬って斬り殺し、また偽りの和睦会を開催し隠れていた兵士らが現地人を殺し尽くすなどをして、やっと盆地内南(38図▲)に小さな領地をもった(橿原市かしはらし)。 これが大和王朝の始まりである。記・紀が8世紀の官僚の創作ならば神武天皇が盆地内のまつろわぬ人々を惨殺しまくったことを詳細に生々しく自慢するように書くことはない、そうではなくて慈愛に満ちた政治と尊敬を受ける初代天皇を創作するであろう。

 記・紀の前半の内容は北九州と山陰地方と対馬海峡・玄界灘を舞台とする天照大御神らが活躍する天孫降臨(上空の天国から降りてくるという意味ではない--倭人伝のなぞ その3で詳述予定)の九州伝承の古代神話であり、後半は神武東侵と大和王朝の事蹟である。この中で神武天皇を始祖とする大和王朝は九州王朝の分流であると言っている。それは生き残った奈良盆地の住民と大和王朝の人々に「我々は神の御言葉に従ってこの地を治めるのである。」という奈良盆地侵略と支配の正当性を自他とも認めさせるための方便である。
 さらに「大和王朝こそ古代より日本列島唯一の王朝である」ことを主張するが故、自らが九州王朝出身の分派でありながら九州王朝を歴史から消し去ろうとした。現在までその巨大な偽りは成功している。




     神武天皇の東侵の渡辺年代計算

 天皇の即位・退位が西暦で知れる天皇は朝鮮の歴史書「百済本記」に年代記述がある継体天皇以降である。
私は継体天皇以降の天皇平均在位年数を計算することを思いついた。

          [算法] 
 15年、16年、17年は何年間か? 17143年間
  26
272829代は何代か? 
29254

       天皇平均在位年数の計算 
 A  26代「継体天皇」 在位507531年から
     52代「嵯峨天皇」 在位809823年まで
           平均在位年数(823506)÷(522)≒11.7/

 B  26代「継体天皇」 から
    66代「一条天皇」 在位9861011年まで
           平均在位年数
(1011506)÷(6625)≒12.3/

 C  26代「継体天皇」 から
    80代「高倉天皇」 在位11681180年まで
           平均在位年数 (1180506)÷(8025)≒12.3/

 A, B, Cの平均 (11.7+12.3+12.3)÷312.1/
 よって天皇一代の平均在位年数を12.1年とすれば、この結果を利用して初代天皇神武までさかのぼれる。

  神武天皇即位は50712.1×26=507315≒192(西暦192年頃)
       A,B,C以外にも計算したが上記結果と僅差であった。

 狗奴国と戦争中の邪馬壱国の女王卑弥呼は西暦239年に中国魏朝に使者を送り、狗奴国との戦いに援助を求めた。西暦192年は卑弥呼の誕生時期か。
 以下の論証をお読みになった後 西暦192年前後20年頃が神武天皇即位の年代として 大きな矛盾がないと思って頂けるでしょう。

  神武東侵の状況証拠 その1 明石海峡 不通過

          ----異常な遠回りと危険な鳴門海峡通過---

 神武らは岡山を出て東進し、河内湖への最短コースで穏やかな明石海峡を通過せず、淡路島西岸を南下し、鳴門海峡を案内人頼みで通過した後、今度は淡路島東岸を北上し、大阪湾から河内湖に入った。以上の位置関係は (図参照)。それは大きな遠回りかつ危険な鳴門海峡通過であった。

理由 神武東侵のころ、明石市以西は平形銅剣圏(北九州王朝圏)であり、東は銅鐸圏(紀元前2世紀から2世紀の約400年間)であったことは遺跡・出土物から判明している。北九州王朝出身の神武らは平形銅剣圏内の人物であったから明石海峡手前まで戦闘はなかった。明石海峡を東進することが河内湖に侵入する最良最短コースであるが、狭い明石海峡は銅鐸圏の監視下にあり、通過すれば船上から弓矢で攻撃される。しかたなく淡路島西側を南下し、鳴門海峡を通過し紀伊半島に沿って北上し大阪湾から河内湖に侵入した。 伝承があったからこそ500年後の記・紀編者らにもこの内容を記述できた。ところで神武らは阿岐国(広島県)と吉備国(岡山県)で情報収集し、「明石海峡を通過しない、上陸地点選定は敵が手薄な河内湖最深部盾津」と決めていたのではないだろうか。


       神武天皇東侵の状況証拠 その2 盾津の戦い

        ---記・紀編者らは「盾津の戦い」を創作できたか?---

 大阪府作成の第40図にある河内湖という大きな湖は急速な縮小過程にあった。第40図に表記される河川(右回りに淀川、古川、寝屋川、恩智川、天串川、大和川、東除川、西除川等)による土砂堆積により河内湖は間もなく陸地となった。まだ河内湖の一部が残る大阪平野の3世紀に古墳文化が起こり、3世紀末期大阪平野は大型古墳の時代に入った。古事記成立
(712年の8世紀初頭の大阪平野は巨大古墳を含む多数の古墳であふれていた。

 河内湖消滅から約500年後(2004年~712年)の記・紀成立時にもし伝承がなかったら8世紀初頭の記・紀編者らは3世紀初頭の河内湖東岸で日下の盾津の戦いがあったことを知り得たであろうか。伝承なしに約500年前に今は無き大きな湖の東端で戦いがあったことを知り得ないし、創作したとしてもそれが自然的歴史事実と一致することはない。つまり神武東侵は語り継がれた史実である可能性が高い。津田左右吉氏が主張する「記・紀編者らによる記・紀創作」説は成り立たないであろう。

 江戸時代の本居宣長は「日下の盾津の戦いに負けた神武軍は河内湖の南方(南の方角)から大阪湾に脱出した」と読解したが、古地図第40図の通り現大阪城の南方から船で大阪湾に脱出できない。そこで彼は神武軍は船を担(かつ)いで大阪城の南方から大阪湾に出たと考えた。南方の正しい読みは「みなみかた」であり、大阪城北東5Kmに阪急京都線の南方駅(みなみかたえき)にその地名は残る。南方は南潟であり近辺の枚方、平方も同様である。

<注意>大阪府作成の第40図に筆者(渡辺)が以下を加筆した、大阪湾、河内湖、今の大阪城と神武天皇たちの進路かつ退路を示す破線。南方はこの本「ここに古代王朝ありき」の著者古田武彦氏の加筆。

参考 盾津(たてづ)・日下(くさか)の地名が今も残っている。  例;東大阪市立盾津中学校、東大阪市日下町


       神武東侵の状況証拠 その3 奈良盆地銅器不存在
                
---3世紀奈良盆地に銅器出土なし---

    弥生時代を前期(紀元前3世紀と2世紀)・中期(紀元前1世紀と1世紀)・後期(2世紀と3世紀)に分割した場合の後期に当たる3世紀の奈良盆地における銅鐸・銅器・鉄器の出土及び遺跡はほぼ皆無である
(38図参照)。しかしそれ以前の弥生前期・中期の奈良盆地に多数の銅鐸が存在しいた(別図)。

理由  神武は奈良盆地南部の一画(38図 ▲)を占領したのは上記192年頃つまり2世紀から3世紀にかけであり、その後盆地全域を領土にした。そして神武は盆地内に存在した銅鐸・銅器を武器に作り直し、盆地外で何度も長髄彦と戦ったが勝つことなく亡くなった。神武死後も戦いは続いた。しかし盆地は銅鐸圏に囲われているため外部から金属材を入手できず、盆地内の埋められた金属器も使い果たした結果が38図の盆地内銅鐸無しの状態である。つまり盆地内の銅鐸で武器を作り盆地外で戦ったため盆地内に銅器は残らなかった(盆地内の戦闘記述はない)。以上が神武存在の銅鐸状況証明である。

まとめ 大和王朝草創期の内外の古文書や金石資料は存在しない。津田左右吉氏のように「記・紀は編者らによって創作されたもの」と切り捨ててしまっては解明できるものも解明されない。記・紀伝承の真なる部分と偽なる部分を判別することにより古代の真実を知ることができると思う。
 ここに紹介しなかったが、特に日本書紀には虚と盗作
(中国史書、韓半島の国々の史書、国内風土記や国内史書)が大胆に多岐にわたり行われている。

 例えば日本書紀には九州王朝の歴史書「日本旧記」からの盗用が多い。また日本国の正当性を示すための国家史書である日本書紀は天皇家の私的史書である古事記よりケタ違いに偽りや盗用をしている。西暦663年の白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗北した九州王朝は国名を「日本」改名して再起を図ったが衰退は止まらず、大和王朝に攻められ息の根を止められた。そして国名「日本」も大和王朝に奪われた(この国名を大和王朝は西暦701年ころから使用開始)。日本列島最初の王朝である九州王朝の存在を抹消し、日本の正当なる唯一の王朝は太古の昔から天皇家の大和王朝であることを正当化させるため都合良く歴史創作、歴史盗用、歴史抹殺を実行した欺瞞の史書が日本書紀だった。ゆえに大和王朝は読まれては困る古事記、日本旧記(他の九州の歴史書)帝紀、旧辞などの国内歴史書を抹殺した、日本版焚書坑儒である日本書紀を日本の正史とするため古事記は大和王朝により抹殺されたが、この消された古事記は600年後の14世紀南北朝のとき奇跡的に発見された。両書を比較することで解明できる真と偽は多々ある。


帝紀;歴代の天皇や皇室の系譜類の書(記・紀以前の書)
旧辞;古事記や日本書紀以前に存在した日本の歴史書
日本旧記:九州王朝の歴史書、大和王朝は御触書、兵力、 
書名不明:日本書紀は九州王朝の多種の史書をただ「一書に言う」 として記事を転用している。 記・紀はなぜ九州王朝の史書の名前を完全に隠蔽しなかったのか、隠蔽ミスか。
[天皇]は奈良時代以降使われた、それ以前は[大王]だった。
参考文献 盗まれた神話(古田武彦著)他、ウキペディア他



       神武東侵の状況証拠 その4 
     --- 奈良盆地から北国、中国、東国地方征服で大和政権成立へ---
北国地方征服
東海地方の征服
中国地方征服


 

          第2

   「建国記念の日」は神武天皇即位の日?

      昭和41年「建国記念の日」制定のウラ


 天皇を中心とする明治新政府が1868年成立した。政府は天皇による国内統治のための一手段として建国日を定めることにした。しかし明確な建国日は不明、そこで初代神武天皇の即位日を建国日(紀元節)とすることにした。しかし神武即位の年月日はわからない。苦肉の策として中国の
辛酉(しんゆう)思想なるものを持ち出した。それは60年の22倍にあたる1320年ごとの「辛酉」の年に「辛亥(しんがい)大革命」が起こると言う。
神武天皇即位年を知らない明治政府は 「神武天皇の大和の国の建国という革命は辛亥大革命だ。ならばその1320程前にも辛酉大革命があったはずである」と明治政府は考えた。しかし神武天皇即位年が不明なのだから神武即位以前の辛酉年もわからない。
 そこで神武即位後の辛酉大革命を見つければ そこから1320年遡った年が神武即位の年となる、 明治政府はそれらしき歴史的大事件として大化の改新を選んだ。 大化の改新を実行した中大兄皇子が即位し天智天皇となった日を辛酉大革命の日とした。それは明確な根拠はないがおよそ西暦661年と言われているのでその1320年前の
紀元前660年元旦を神武即位の日とした。このデタラメな神武即位の日を明治政府は明治5紀元節と名付けて建国の日として法制化した。旧暦の元旦は新暦の211日なので紀元節は211です。 なんということでしょう、嘘と偽りの日本書紀と同じ偽りを明治に繰り返した。そして下記のとおり昭和でも偽りを繰り返した。

 以上の明治政府の紀元節決定の事情は調査なしの私の想像です。これを確かめる作業にどなたか挑戦しませんか。

補足1 大和王朝の前に九州王朝が存在し、大和朝廷はその分流であることは記・紀に書かれているし、かつ魏志倭人伝の記述や出土物から間違いない。 日本に建国の日と呼べる日はあったか。 建国の日でなく、現在は「建国記念の日」である理由は 「建国の年月日は不明だけど、建国はあったのだから単に建国を祝う日」という意味だそうです。 さすがに現在では建国年が紀元前660年(縄文時代)と言えないので、紀元節と同じ
2月11日だけを「建国記念の日」に残しました。 2月11日に天皇制の維持と強化の復古主義が隠されている。 日本人は建国記念の日211日にモヤモヤした感情を持っているのではないか。 それは2月11日がなぜ建国記念の日なのかわからないからだろう。 そしてまやかしを直感する国民にとって「建国記念の日」は「よくわからない休日」である。



補足建国記念の日の立法経過
 明治5年に日本の建国日を紀元前660年元旦とする紀元節が制定されました。第2次世界大戦後GHQにより紀元節は廃止されました。その直後から保守政党は紀元節復活のため執拗に行動しました(自民党結党は昭和30年)。国会で反対意見が多く、何度も廃案になりました。昭和23年に下記のように建国記念の日を制定することだけが立法されましたが 建国記念日を定められませんせんでした。そして18年後の昭和41年に法律ではなく政令で「2月11日を建国記念の日」とすることが制定されました。

「昭和23年法律第178号国民の祝日に関する法律」

建国記念の日 政令で定める日 建国をしのび、国を愛する心を養う。

「昭和41年政令第376号建国記念の日となる日を定める政令」

 内閣は、「国民の祝日に関する法律(昭和23年法律第178)2条の規定に基づき、この政令を制定する。国民の祝日に関する法律第2条に規定する建国記念の日は、211とする」とした。      
                お読み頂き有難うございました。


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中1正負の計算で生徒混乱 渡辺修一 < >は渡辺のつぶやき
 希望に燃えた中学1年生の少なからず生徒は入学間もなく数学正負の数の計算で学業に不安を持ちます。そこでやさしい正負の数の計算を紹介します。教科書がわかりにくい理由は数直線使用だからです。    
7世紀にインドで負の数は負債を表す数として使用され、数学者デカルトとガウスは正負の数と虚数を数直線上で使い数学の世界を広げた。その手法の一部を中1の正負の学習に利用している。この数直線一部利用が中1生を混乱させている。東京書籍版教科書の内容を紹介し、次に数直線を使用しない計算法を説明します。
中1生泣かせの教科書の解説紹介 注;<>内は筆者記述
 <教科書中の数直線上に 右向き左向きの着色された太い・細い矢印の
 図をここに表示できません、 みなさん中1の教科書を思い出して下さい>
・同符号の加法; (-4)+(-6)=-10 和の符号は-で 絶対値は4+6=10
・異符号の加法; (+9)+(-4)=+5だから 和の符号は+で 絶対値は 9-4=5  
 <加法と同様数直線の上下の矢印で減法を考えさせる>
・同符号の減法; (-2)-(-9)=(-2)+(+9)=+7 負の数を引く→正の数をたす。
・異符号の減; <略>  <以上4つの場合に分類の一つを選択する>
・乗法;東(+)西(-)にのびる道路を東へ時速4Km歩く、2時間前の位置は?
    (+4)×(-2)=? 4×2=?8Kmだけど 2時間前だから今の場所より西に8Kmつまり-8Km
<こんな計算がp27~p38まで続く。中1生は自信喪失>
<教科書p41の隅に小さく下記があります、数直線は忘れて今後はこれで計算せよ?>
  (+)×(+)=(+) (-)×(-)=(+)  (+)×(-)=(-)  (+)×(-)=(-)

       新正負の数の計算 
 わかりにくい教科書への挑戦が教員10年目のあることがきっかけで始まりました。「中1生が笑顔で学べる正負の計算は?」 そこで自作プリントを作成し生徒の反応を見て改良し新しい正負の数の計算プリントを完成しました。今もこのプリントで中1生全員が四則計算を楽しみながらマスターしてます。文科省や監修者の大学教授達は自分たちが監修した教科書がこども達を苦しめていることを知らないのでしょうか。
A 加法・減法 → 生き残りはどっちが何人
-5+2=-3 ← -軍兵士5人、+軍兵士2人。
 戦って-軍兵士3人生き残る。
-4-2=-6 同軍だから戦わない。 
B ( )はずし → 異マイ同プラ 
+(+8)=+8 ←同プラ -(-3)=+3  ←同プラ
+(-7)=-7 ←異マイ -(+8)=-8 ←異マイ
C カッコ付き加法・減法 →異マイ同プラ
  (+3)-(-5)-(+9)=+3+5-9=+8-9=-1
D 乗法 (+5)×(+2)=+10 ←同プラ
      (+5)×(-2)=-10 ←異マイ
E  除法 (+4)÷(+2)=+2 ←同プラ (-4)÷(+2)=-2 ←異マイ
これで小学3年生が計算できた。暗記は2つです(異マイ同プラとどっちが何人)。

---新しい約束--- 
 マイナス×マイナスは なぜプラスなのか。物理学で世界トップ3人で米国大学の日本人教授は「マイナス×マイナスはどうしてプラスになるの?」という質問を常に問われ、その解説本を出版したが、目的不達成。何才になっても大勢が中1生時の負数×負数=正数を納得できてない。月刊誌ニュートン2008年12月号は虚数の特集号で、P34は「マイナス×マイナスは なぜプラスか?」でした! 広島大学数学科准教授 木村俊一氏と東京大学総合文化講師 和田純夫氏2名の執筆の抜粋;「マイナス×マイナスは絶対にプラスでなければならないと言うわけではない。数学は約束事である。マイナス×マイナスはマイナスという規則の世界を作ることも不可能ではないが、計算は非常に複雑になってしまう。やはりマイナス×マイナスはプラスとした方が自然であり都合が良いのである。」

 正負の数四則演算の新約束
①同符号の数の加法はそれらの絶対値の和にその符号を付ける。 -2-3=-5
②異符号の減法は絶対値大の数と絶対値小の数の差に絶対値大の数の符号を付ける。
   +2-5=-(5-2)=-3
③カッコはずしは異マイ同プラとする。
   -(-7)=+7  +(-7)=-7
④同符号の数の乗除の結果はプラスとする。
   (-2)×(-3)=+6 同プラ
⑤異符号の数の乗除結果はマイナスとする。
   (-8)÷(+2)=-4 異マイ      
以上は私の考える中注1生救済方法です。終
















中1数学正負の数計算法で生徒混乱 渡辺修一 < >は渡辺のつぶやき
 希望に燃えた中学1年生の少なからず生徒は入学間もなく数学正負の数の計算で学業に不安を持ちます。
そこでやさしい正負の数の計算を紹介します。教科書がわかりにくい理由は数直線使用だからです。    
5世紀に0を発見したインドで 7世紀に負の数は負債を表す数として初めて使用された。
13世紀に負の数はイタリアのフィボナッチによりヨーロッパに伝えられた。+、-の記号は1489年に考案された。
偉大な数学者デカルトとガウスは正負の数と虚数を数直線に置き数学の世界を広げた。
例えば虚数iを掛けることは数直線の原点を中心とする90度の左回転、マイナスを掛けることは180度の左回転として
高度な数学を構築した(縦軸は虚軸)。その手法の一部を中1の正負の学習に利用している。この数直線一部利用が
中1生を混乱させている。数直線不使用の解説ならわかりやすい。東京書籍版教科書の内容を紹介し、次に数直線を使用しない計算法を説明します。
中1生泣かせの教科書の解説紹介 注;<>内は筆者記述
 <教科書中の数直線上に 右向き左向きの着色された太い・細い矢印の図をここに表示できません、 みなさん中1の教科書を思い出して下さい>
・同符号の加法; (+4)+(+6)=+10   和の符号は+で 絶対値は+4+6=10
      (-4)+(-6)=-10 和の符号は-で 絶対値は4+6=10
・異符号の加法; (+9)+(-4)=+5だから 和の符号は+で 絶対値は 9-4=5
      (-10)+(+4)=-6だから 和の符号は-で 絶対値は10-4=6
   <数直線の上下に加法の矢印の矢印3本あって そこから減法を考えさせる>
・同符号の減法; (-2)-(-9)=(-2)+(+9)=+7 負の数を引く→正の数をたす。
・異符号の減法; (+1)-(+4)=(+1)+(-4)=-3 正の数を引く→負の数をたす
 <以上4つの場合に分類の一つを選択し その計算方法を実行する>
  
・乗法;東西<東(+)西(-)>にのびる道路を東へ時速4Km歩く、2時間前の位置は?
     (+4)×(-2)=?
  4×2=8Kmだけど 2時間前だから今の場所より西に8Km。
よって  (+4)×(-2)=-8
<こんな計算が続くp27~p38まで続く。中1生は自信喪失>
<教科書p41の隅に小さく下記があります、数直線は忘れて今後はこれで計算背よ?>
  (+)×(+)=(+) (-)×(-)=(+)  (+)×(-)=(-)  (+)×(-)=(-)

      44年前に考案した新正負の数の計算 
 わかりにくい教科書への挑戦が教員10年目のあることがきっかけで始まりました。「中1生が笑顔で学べる正負の計算は?」 
そこで自作プリントを作成し生徒の反応を見て改良し新しい正負の数の計算プリントを完成しました。
今もこのプリントで中1生全員が四則計算を楽しみながらマスターしてます。
文科省や監修者の大学教授達は自分たちが監修した教科書がこども達を苦しめていることを知らないのでしょうか。
A 加法・減法 →  生き残りはどっちが何人
-5+2= ←マイナス軍兵士5人、プラス軍兵士2人。
      戦ってマイナス軍兵士3人生き残るから -5+2=-3
-4-2= マイナス軍同士だから戦わないので -4-2=-6 
B ( )はずし →  異マイ同プラ 
+(+8)=+8 ←同プラ -(-3)=+3  ←同プラ
+(-7)=-7 ←異マイ -(+8)=-8 ←異マイ
C カッコ付き加法・減法  →  異マイ同プラで カッコを外す
  (+3)-(-5)=+3+5=8
  -(+3)-(-5)+(+1)+(-2)=-3+5+1-2=-5+6=1
D 乗法 (+5)×(+2)=+10 ←同プラ (+5)×(-2)=-10 ←異マイ
 除法 (+4)÷(+2)=+2 ←同プラ (-4)÷(+2)=-2 ←異マイ

この計算方法で小学3年生が計算できました。そして暗記は2つです(異マイ同プラと生き残りはどっちが何人)。

---------新しい正負の数の計算は数学か?--------- 
 新しい正負の計算方法は数学として承認されるのか、またマイナス×マイナスは なぜプラスなのか。
物理学世界トップ3人で米国大学の日本人教授(姓名忘却)は「マイナス×マイナスはどうしてプラスになるの?」という質問を
繰り返し受けるため、その解説本を出版しました。何才になっても多くの人が中1生のときの負数×負数=正数が納得できてい
ないのでしょうネ。私は早速購入しましたが私を納得させませんでした(買い物など生活場面を利用)。月刊誌ニュートン2008年12月号は
P18~49まで虚数の特集号でした。そのP34のテーマは「マイナス×マイナスは なぜプラスか?」でした!
広島大学理学部数学科准教授 木村俊一氏と東京大学総合文化研究科専任講師 和田純夫氏2名の執筆の抜粋;「マイナス×マイナスは
絶対にプラスでなければならないと言うわけではない。数学は約束事である。マイナス×マイナスはマイナスという規則の世界を作ることも
不可能ではないが、計算は非常に複雑になってしまう。やはりマイナス×マイナスはプラスとした方が自然であり都合が良いのである。」
 <つまりある数学的約束によって数学的世界が創造される。
        もしその数学的世界が有用であればその数学的約束は重宝されるし、そうでない場合は利用されない。


正負の数四則演算の新しい約束(生き残りはどっちが何人を?を数学的に表現)
同符号の数の加法はそれらの絶対値の和にその符号を付ける。 ←↓どっちが何人
異符号の数の減法は絶対値大の数と絶対値小の数の差に絶対値大の数の符号を付ける
  例 +2-5=-(5-2)=-3 <簡単表現>生き残りはマイナス軍が3人
カッコはずしは異マイ同プラとする。 -(-7)=+7  +(-7)=-7
同符号の数の乗除の結果はプラスとする。 例 (-2)×(-3)=+6 同プラ
異符号の数の乗除結果はマイナスとする。 例  (-8)÷(+2)=-4 異マイ  終