由緒略記

           

             中山忠能公御染筆額

御祭神

    速須佐之男命(すさのおのみこと)様、稲田姫命様ほか二十四神
    
       二十四神は明治の中頃に、近郷三町内でおまつりされ、合祀の神々です。

       櫛御気野命(くしみけぬのみこと) 

         
須佐之男大神の別称、櫛は奇で神徳を讃える意、奇御木無視若しくは奇御饌主の意。
       宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)
         須佐之男大神の御子。稲荷神社の御祭神。
       保食神(うけもちのかみ)
         食物を司る神。
       軻遇突知神(かぐつちのかみ)
         火を司る神。
       菅原道真公(すがわらのみちざねこう)
         学業の神。
       建御名方神(たけみなかたのかみ)
         諏訪神社の御祭神。大国主命の御子。
       市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)
         水の神。
       木花開夜姫神(このはなさくやひめのかみ)
         容色婉美な神。
       誉田別神(ほんだわけのかみ)
         應神天皇。
       経津主神(ふつぬしのかみ)
         香取神宮の御祭神。武威高い神。
       伊邪那美神(いざなみのかみ)
         須佐之男大神の母神。
       豊受気姫神(とようけひめのかみ)
         伊勢神宮外宮に祀る神。食物を主宰する産霊の神。
       大物主神(おほものぬしのかみ)
         奈良県大神神社の御祭神。大己貴神の和魂(にぎみたま)を称えていう。
       火産霊神(ほむすびのかみ)
         火を司り護る神。
       積羽八重言代主神(つみはやえことぬしのかみ)
         大国主命の御子。事代主神。
       高淤加美(たかおかみ)
         祈雨、止雨に霊験高き神。
       上津綿津見神(うえつわたつみのかみ)
         海を司る神。
       八衢彦神(やちまたひこのかみ)
         街路に在り外部より侵入してくる邪心を禦ぐ神。
       八衢毘賣神(やちまたひめのかみ)
         八衢彦神の夫婦神。御神威は同じ。
       大日靈神(おおひるめのかみ)
         大照大御神の別の名。
       埴山毘賣(はにやまひめのかみ)
         土を司る神。
       大山祗神(おおやまつみのかみ)
         伊邪那岐命、伊邪那美命の子。山を司る神。
       大国主神(おおくにぬしのかみ)
         須佐之男大神の子孫の神。出雲大社にまつられる神
       大己貴神(おほなむちのかみ)
         大国主命の別名。

御由緒

 貞勧11年(869年)諸国に疫病蔓延、地震・津波で国内困窮の時に、清和天皇の勅掟により、尾州津島神社を勧請して当地に創祀され江戸時代までは「天王宮」を社号として、千百数十年にわたり、皆様の健康と厄除を御護りし、広く崇敬されてまいりました。

 天喜5年(1059年)源頼義公奥州征討のときに当神社を深く崇拝せられ武運長久を祈誓され、凱旋にあたり社殿を修造し神領を寄進されました。

         
        
  
           上杉憲寛公戦勝祈祷文書大永6年(1526年)
             「 為出陣祈祷 巻数一合給畢 喜入候恐々謹言」
                大永6年丙戌9月十三日 憲寛 花押
                   上州天王左門太夫殿

 戦国時代の武田、上杉、北条などの武将達の書状が今に伝えられ、戦勝祈祷文書や社家高井左衛門太夫への安堵状等篤く崇拝された様子がしのばれます。高崎藩主、箕輪城主より神領が寄進され奉幣の儀が度々行われ、寛永11年に徳川家光公より御朱印三十石が寄進され、以来幕末まで続いておりました

                

                  徳川家光公御朱印状                 双体道祖神(正徳元年1771年)

      「天王社領上野国群馬郡 柴崎村之内参拾石事任
      先規乞寄附之訖全可 収納并社中山林竹林等
      如有来弥不可有相違者也 仍如件」
        寛永十九年九月二十四日 家光
        (朱印)

    
 明治2年の高崎五万石騒動の際には直訴の農民四千人が天王の森に集合したといわれ広大な神域です。

 明治初年にそれまでの社号「天王宮」はインドの祇園精舎を守護し、仏様に縁深い牛頭天王からの名前と云われ、神仏分離令で改称されることとなり、神職司の高井左衛門太夫心足(うらたり)は御祭神にちなみ雄大に進むを祈誓して大神様を社号とする「進雄神社」と改称し、明治天皇の外祖父中山忠能公にご染筆いただき社頭額と掲げました。

 明治の中頃に近郷三町内の神社を合祀し御祭神二十四柱をおまつりしました。

 平成の御代に総檜、権現造の御社殿を新築造営すると共に神域を整厳しました。

              
 
           

ねじり杉の不思議

当神社は永く高井家左衛門太夫が社家として務めておりますが、戦国時代に故なく武田家の命により他の者に取って代わられたことがありました。
そのときに夜な夜な神楽の面が御神木の杉の木の上にて火を噴き、御神刀は蛇に身を変えて天井を這い、その者を悩ませました。
その者はたまらずに、神楽の面を割り砕き太刀とともに近くの丘に埋めて退散し、再び高井家の者が社家として再任されました。
神楽面を掘り出しそのところに杉を植えたところ、杉はねじれた幹となって「神楽塚の不思議な捩れ杉」と呼ばれております。
また掘り出された神楽面は翁、般若、天狗の三面ですがそれぞれに割られ傷ついておりますが、神社社宝として大切に保管されております。

武田家文書
  「上州天王太夫司職之事 依先忠雖被補任伊藤太夫 退出在所之條任先例被還補被職 畢然而御当家御   武運長久之精誠  不可有怠慢義専一に候恐惶謹言 」



               
      

         社宝「火吹きの神楽面                  不思議な捩れ杉