小栗上野介とは
小栗上野介にまつわる逸話
アメリカ造幣局で
 条約文書交換のため渡米した上野介は金貨製造所を見学した。そこで驚いたのは、金と銀の比価が日本と全く違うことだった。当時、日本では金1に対して銀6、欧米では金1に対して銀15という相場だった。「こんな相場で海外と貿易をしたら、日本の金はたちまち海外へ流出してしまい、日本はますます貧しくなる。」と早速交渉にかかった。当時のアメリカの新聞によると「アメリカは金以外の含有量の分析に時間がかかると言って彼を説得したが、彼はどんなに時間がかかっても結構と言って動かなかった。それは、呆れるほどの忍耐力であった」という。こうして日米間の金貨交換比率は日本側に不利がない結論が出て、初の経済外交は終わった。

村人の義侠心
小栗上野介供養墓
供養墓        
小栗上野介本墓
本墓

 上野介は捕らえられる前に妻と老いた母、そして息子の嫁に脱出をさせた。村人たちは30名あまりでその護衛を引き受け、越後〜会津をめざし逃避行を続けた。行く先々で縁故を頼って、時には昼間隠れて夜歩き、あるいは草刈り篭に潜む上野介夫人の上から草を被せて背負い、山河はるかに千辛万苦の旅を続けた。おかげで夫人は会津に無事たどり着き、そこで遺児を出産した。(成人後、小栗家を継いで泉下の上野介の安堵を全うした。)
 また、処刑された上野介の首は、当時館林に滞在していた明治新政府軍の総督府へ送られ、首実検の後に市内の法輪寺に埋葬された。1年後の明治2年早春、村人達は主の首が遠く離れた地にあることを憂え、「一周忌が近いので墓石を建てたいという触れ込みで埋葬場所を確かめ、盗掘に成功しちょうど一周忌には地元東善寺の墓地へ胴体と一緒に埋葬された。領主のためとはいえ、計算ずくではかなわぬ村人の義侠心が発揮された行動であった。

「埋蔵金」の虚説
 上野介が権田村へ隠遁してきた頃から、多額の軍用金を持ち込んだという噂がつきまとった。たしかに2700石の旗本が江戸を引き払ってきたのだから、家財道具だけでもかなりのものである。これらが長蛇の列で運ばれてきたのだから沿道の関心も引き、軍用金のうわさが出ても不思議はなかった。しかし、彼は崩壊寸前の幕府財政を一手に切り盛りした人であり、一家の家計簿さえも記帳しているほどの人物だった。(この家計簿は現存し、これを見るかぎり、虚飾を排した堅実な家計である。)終始一貫して現実主義者であった彼にとって、いつ使うか分からぬ大金を「幕府再興のため」として埋めるより、目の前に展開している内政改革(製鉄所や語学学校の建設)のための投資のほうがはるかに喫緊の大事であった。そんな彼の姿を知れば、埋蔵金の話など無縁の作り話と断定できよう。
 
 東郷元帥の感謝
 日露戦争での日本海海戦は日本軍の逆転勝利で幕を閉じたが、この戦争の英雄「東郷平八郎」元帥は自宅に上野介の遺族を招き、「このたびの海戦において、勝利を収められたのはあなた方の父上が横須賀造船所を日本のために建設しておいてくれたおかげです。造船所で造られた船で我々は敵を壊滅させることができました。」と感謝を述べた。そして、「仁義礼智信」と書いた縦・横2枚の書を贈った。
 明治政府の手で処刑された上野介の名誉回復はこの時から始まったと言ってよい。そのことを証明する記念すべき額が東善寺に残されている。
東郷平八郎の書額 東郷平八郎の書額(東善寺所蔵)

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