渡米使節での経験を活かし海外の様々な文化を積極的に取り入れたが、幕府崩壊のためその多くは陽の目をみることはなかった。(のちに明治政府に受け継がれ、実現する。)その構想としては、
◎滝野川火薬製造所および反射炉の建設 | ◎湯島鋳造所の改造 |
◎歩兵・騎兵・砲兵三兵の編成と陸軍教育の充実 | ◎日本最初の株式会社、「兵庫商社」の設立 |
◎諸色会所(商工会議所の前身)の設立 | ◎中央銀行の設立計画 |
◎新聞発行計画 | ◎書伝箱(郵便)・電信事業の建議 |
◎ガス灯設置と建議 | ◎鉄道建設(江戸〜横浜間)の建議 |
などがあった。
当時、幕府はフランス人を招き海外技術の伝習を急いでいた。そのため、関係者の役人や生徒たちのために語学学校を設立した。設立スタッフは上野介と彼の盟友栗本鋤雲、レオン・ロッシュらであった。授業内容はフランス語のほかに、地理、歴史、数学、幾何学など。時には英語も開講されていた。明治期に入ってフランス語研究の先駆となって活躍した多くの人々を輩出している。
上野介が軍艦奉行になった頃(元治元年)幕府は11隻の輸入艦船を保有していたが、上野介は日本で自力で軍艦をつくる必要性を感じており、造船技術を先進諸国から導入することを考えていた。そして、フランスと提携し、横須賀に製鉄所の建設をはじめた。総工費240万ドル、工期4年という当時としては東洋一の大工場で、「近代日本のあけぼの」とも言うべき事業だった。一般に製鉄所と呼んだが、製鉄、造船、大砲等の兵器全般をつくる総合的な工場だった。工期より遅れて完成したが、残念ながらそのとき上野介はこの世には亡かった。
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