小栗上野介とは


小栗上野介の生涯
小栗上野介肖像

 1827年(文政10年)、江戸駿河台邸に誕生。幼名「剛太郎」。小栗家は代々徳川家に仕え、上野、下野、上総、下総など2700石の禄高を持つ旗本だった。幼い頃は病弱であったが、意志が強く少年時代はガキ大将であったという。

 8歳の頃から漢学、剣道、柔術、砲術など多彩な方面に興味を持ち、文武両道に抜きん出た才能を発揮していった。この頃から血気盛んな青年たちとよく議論し、特に開国論には大いに感化されたという。その後、17歳で登城し、将軍に初御目見得して以来、部屋住みから武術出精のことを認められ、将軍直属の親衛隊となった。

 29歳の時、父の病死により、家督を継ぎ「又一」と改名。(この名は徳川家康から与えられたもので、小栗家は代々この名を襲名している。)この頃、たび重なる外国船の来航の中で攘夷論が幕府内の風潮となっていたが、彼は終始一貫して海外との貿易を求め、開国思想を推進していた。このことが時の大老井伊直弼の目にとまり、アメリカへ修好通商条約交換のため差遣された。その帰路、彼は日本人で初めての世界一周を果たす。日本とは違った、進んだ海外文化を目の当たりにした彼の衝撃と感動はすさまじかったことだろう。

 36歳で幕府の財政を一手に扱う勘定奉行に任命され、「上野介」と改名。海外文化を積極的に取り入れ、 横須賀製鉄所(造船所)の建設、仏語学校の建設、陸軍伝習所(洋式軍隊の養成のため)を開くなど幕府のためのみならず、「日本」の近代化のために数々の偉業を成し遂げた。

 1868年(慶応4年)、倒幕の意志を明らかにした薩摩、長州藩に対して、幕府内で終始主戦論を唱えていたが、遂に受け入れられず領地の上州権田村(現倉渕村)に隠遁、打ち壊しの暴徒たちから村を守りながら青年育成のため学校建設を計画していた。しかし、彼の実力と考え方に不安を抱く倒幕軍の追討令により閏4月5日遂に捕らえられ、翌6日、弁解の余地もなく家臣とともに首を打たれた。享年42歳。幕府を支え、日本の近代化を夢みた男の悲しい最期であった。

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