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スッと引き寄せられた己の手。
まるで他の誰かの手のように眺めていたら
己の手の甲はそっと柔らかいものに触れた。
の頬に――
瞬間胸が締め付けられるように苦しくなるのを感じた。
柔肌は優しく現八の手の甲を包む。
目の前で現八の手を頬にあて
時折摺り寄せる様にはぞくりとした何かが背を走った。
堪らなく愛おしく、どこか心が安定するような感覚・・・
それでいて、同時に強く 欲しいと感じた。
ここが外でなければ欲望のまま、を引き寄せ組み敷いていたかもしれん。
だがをそんな風に扱いたくないと感じている。
勿論欲しい気持ちは本当だ。
悔しいが、わしの心はもうに惹きつけられ・・離れられんようじゃ。
「現八に今までは置いて行かれたくなくて不安になったりしてたけど
どんな事になっても現八は私の傍に居てくれた」
ポツリポツリと話し始めるの声。
不思議と心地よく、ジッと聞き入る現八。
だがその現八が、旅が進む度に置いて行こうとも考えた・・
何度も迷った事をは知っているだろうか?
静かに話すを見つめ、の手の温もりに浸る。
空は次第に薄暗くなり始め、半時が経つまで残り僅かだ。
「私はね現八・・確かに今、前向きになれたけど」
は暮れ行く空を見上げてゆっくり言葉を紡ぐ。
そういう気持ちになれたのは、現八が真っ直ぐに私だけを愛してくれてるってわかってるからだよ?
確かに貴方に愛されてる、そう強く確信してるから私は迷えたり悩んだり落ち込んだり出来た。
現八がどんな時もどんな私でも、信じて見ててくれるから
私は安心して落ち込めるし悩めるし迷えるんだ。
それもこれも全部、現八が居てくれるから出来るの。
だから・・辛そうな顔をしないで、私には現八が必要なんだ。
私が私らしく居られるのは、現八が居るからなんだよ?
じんわりと現八の心に沁み行く言葉・・
その言葉は、らしくない自身が抱いた不安を癒していく。
「現八――」
「・・・っ・・すまん」
ゆっくり静かに話すの声が驚きに上ずる。
その反応に気づき、それから自分の頬が濡れている事にも気づいた。
全くらしくない・・守るべき相手の前で泣くとは。
こんなにも安心させられたのは初めてだった。
からの言葉がこんなにもわしを安心させ、癒してくれるとは。
今の気持ちを上手く説明出来んが、安堵し、不安が払拭された事だけは分かった。
言葉だけでわしの心を掬い上げるとはな・・
わしには勿体ない女じゃ・・・無論、誰にも譲る気はないがの。
吃驚した様子のは、現八の手を開放しそのまま距離を詰める。
それから遠慮がちに伸ばした指で、流れ落ちた現八の涙を拭う。
初めて見せた現八の涙に、胸がドキドキしてキュッと締め付けられた。
とても綺麗で、見惚れた。
「泣かないで・・現八、ごめん・・・私多分現八の事を不安にさせてた」
「・・・そうじゃな、正直に言うならわしも不安を感じとった」
「現八・・」
「お主は強い、あの頃から知ってはいたが今改めてそう感じた」
じゃから、わしがおらずとも歩んで行ける。
一人でも生きていける、そう言われるのではないかと・・
それでも構わぬとも覚悟した。
「死産を経験し、深く落ち込んだのを見て支えねばと思っていた
まあ男と言うのはそういう時なんと支えてやればいいのか分からなくての・・
支えねばと焦る気持ちと、子を望む気持ちを押し付けてやしないかが頭から離れず
今回の事でがどう思っているのか、子を望んだ場合・・また傷つけてしまうのではと」
どうするのが正解なのかを悩んでいた。
そう現八はへ独白。
・・・・どうしよう、今目の前にいる現八が堪らなく愛しい。
私の為に悩ませてしまったのは確か。
不安にさせてしまったのも事実・・なのだけども
落ち込んだ事を隠さず口にした姿を見たら、堪らなくなってしまった。
この気持ちをなんて言ったら良いんだろう。
言葉だけじゃ言い表せる自信が無いから
現八と距離を詰めた私は、心が命ずるまま背伸びをし
軽く着物の袷を下へ引いて、涙で濡れたままの現八の頬に口づけた。
我ながら恥ずかしい事をしてしまった。
と後になってそう感じるが、そうしたくなってしまったんだから仕方ない(
「・・?」
「珍しく可愛い現八が悪い」
「か、可愛いじゃと?」
驚いた現八に感じたままの言葉を言えば
ムッとした顔に変わる、そんな様もまた愛おしい。
何か言われる前に私はぎゅっと現八へ抱き着いた。
厚い胸板に頬を摺り寄せれば、ふわりと清潔な香りを感じる。
出逢った時からずっと変わらない、現八だけの香りだ。
「凄く可愛いし、凄く愛しくて安心する」
「・・またお主はそう恥ずかしい事をサラッと言うのう」
「もっと現八を感じたい、て思う気持ちも変わらない」
「わしもじゃ・・・お主と深く交わりたい、が、壊してしまいそうでな・・」
「現八も恥ずかしい事サラッと言う・・!」
「嘘は付けんからの」
何度抱いても抱き足りない、との耳にだけ届くように言うと
自分の背に回されたの左手を外させ
優しく手に取ると、口許へ近づけて唇をの薬指辺りに落とした。
まるで誓いの口づけをするかのように。
現代の結婚式に通ずる事をされ、今度はの目が潤む。
指輪もドレスも神父も家族も友人もいないけれど
改めて誓い合うみたいに感じ、涙は自然に溢れていた。
涙に気づいた現八は、自然な流れでの目許に口づける。
さっき自分が現八にした事をされ、改めて恥ずかしい事したなあと思った。
この世界に戻り、里見へと旅立つ事を決めた地。
全ての始まりの場所で、私と現八は互いに想いを明かし
そしてまた想いを確かめ合い、誓った。
空は茜色から紺色へと変わり夜の帳が下りる。
その空の下を、仲良く並んで戻ると現八の姿。
もうその姿から不安を感じさせる色はない。
仲睦まじく歩く背は、村正の待つ家へと消えて行った。
二人で戻った事を村正はとても嬉しそうに迎え入れ
頻りに良かった良かったと呟いては
現八の肩を叩き、満足そうに頷いた。
恐らく、村正の計らいだったのだろう。
敢えてらが話し合う時間を設け
がこの地に初めて立った始まりの場所へ行かせた。
歳の功が成せる技か、今の二人に必要なのは本音で語り合う事だと読んだのだろう。
夕暮れ間近は人通りも消え、話し合うには丁度いい。
半面一人歩きは危険になるが、現八の腕があれば襲う側が瀕死になるだけで済む(うん?
「その様子じゃと、何やら良い話が出来たようじゃな」
「村正のお陰だ、本当ありがとう」
「私からも礼を言いたい・・村正殿、感謝致す」
「なあに、わしにとって二人は孫みたいなもんじゃからのう」
実の孫に出来なかった事をさせて貰えて、わしの方こそありがとうな。
とと現八から礼を言われた村正は笑った。
去年も今も聞く事はしないが、恐らく村正は家族と言うものが居ない。
家の中も一人で暮らして行く為だけの備えしかないし
村正以外の人が住んでいる事を感じれないのだ。
頼れる家族も、村正の帰宅を待つ者も・・訪ねて来る者もいない。
村正の事を心配してくれる人は、誰も居ないなんて・・・
どうして村正は一人で生きる事を選んだのだろう。
ふと今まで気にもしなかった事が気になった。
いやしかしこれは個人的な話だし、あまり突っ込んで聞くのも失礼だよな。
聞きかけてやめた為、妙にもごもごさせながら芋の煮っ転がしを頬張る。
楽しい空気を凍らせてしまったらと考えたらやめて正解だとは自己完結させた。
だがそれすらも感じたのか間を置いたのち、村正自身が話し始めたのだ。
「若いもんが遠慮なんてするもんじゃないぞ」
「いや・・立ち入った事だろうなと思ってさ・・・」
そう村正に返すと目を細めて穏やかに微笑んだ。
一通り夕餉を済ませた後、村正は静かに語りだす。
元々は肥後(熊本)に庵を構えていたが、東の常陸(茨城)へ旅した理由。
現代の歴史から言うと、今目の前にいる千子村正は初代と呼ばれる者より更に古い代であり
正史ではまだ生まれても居ないだろう、その辺りがやはり・・
正史の過去に飛んだのとは異なっている点だろう、最近そう感じる事が増えた。
私は、正史の過去にタイムスリップしたのではなく
南総里見八犬伝の本の中にトリップした訳でもなく
来年放送される開局記念のTBSドラマの里見八犬伝の世界にトリップしたのだ。
だからこそ正史では既に没している筈の千子村正が健在なのだろう。
何故ドラマになる里見八犬伝の世界だったのかは分からない。
でもまあ、だとしてももう私はここで生き抜く事を選んだ。
村正は伊勢国(三重県)の生まれだそうだ。
の世界でも有名な徳川家康ら、三河武士の間で村正の刀は好まれた。
暫くはその地で名を馳せていたが一つの出逢いがきっかけで一時刀鍛冶を退いていたらしい。
その出逢いと言うのは村正が生涯で唯一心の底から愛し
共に添い遂げたいと願った者だと言う。
刀鍛冶として名が売れて来た頃村正は更紗と出逢った。
しかし、出逢って数十年経つか否かの頃
千子派が確立し弟子も増え、この先の暮らしも安泰という時に
胸の病が悪化した更紗は、その事を村正に明かす事なく旅立った。
つまり、亡くなったのだという。
この時の事を村正は未だに悔いていると話す。
自分の事業の発展に夢中だったあまり、最愛の人の病に気づいてやれなかったと。
「若いお前さん方を見ていると、まるで昨日の事のように思い出せる」
小さなくなった目を細め、懐かしむように村正は話した。
当時の事を今更悔いても召された命は戻らない。
こんな時代だ、人間なんていつ死ぬか分からない
だからこそ、一日一日を悔いる事なく大事に生きなさい。
後悔なんて幾らでも出来る、我々は今生きているのだから。
そう話の結びを口にし、淹れた茶を飲む村正は
多くを語る言葉をも飲み干したかのように、寝入る刻限まで黙していた。