喪失



新たな命が宿る腹部に、今まで体験したことがないくらいの強い痛みが走った。
と同時に何かが弾け、じわりと下腹部が濡れる。

破水した

向こうに居る時の保健体育の授業で見た教材のビデオから得た知識から無意識にそう察する
文字通り胎盤を満たしていた羊水が流れ落ちているから、サラサラとした感覚が太腿を伝う。
激痛とも取れるこの痛みは、宿った命が生まれる合図だ。

「現・・八、破水した・・・っ」
「何じゃと?いよいよ陣痛が始まったんじゃな?」
「ん・・・お産婆さん・・呼んで・・・・」
「分かったすぐに呼ぶ、もう少し我慢出来るか?」
「うん・・っ」

喋るのも億劫になるくらいの痛みだったが、何とか用件だけを傍にいる現八へ伝えれた。
後はもう頷くだけで精一杯になる、そんな私に目の前の現八は優しく微笑むと
知らずに滲む汗ばんだ額に口づけて部屋を飛び出して行った。

何か一々やる事が恥ずかしい・・
それすらも愛おしく、私の心を温かく満たすのだ。
もうすぐ会えるんだ・・私と現八の子供に。
なのにどうしてか、陣痛と違う強い痛みに気づいてしまった。

羊水と違うもう一つの液体が私の太腿を流れるのが分かる。
いやだ、勘違いで終わって欲しい。
水とは違う液体が、赤くなければいいのに・・そう私は願った。


+++


「今すぐ湯を沸かしな、浜路姫は此方で姫様の汗を拭いて差し上げて下さい」
「――はい!」

気概のいい産婆と思しき妙齢の女性が浜路に伴われるようにして駆けつけたのは破水して約5分後。
現八も信乃も義実も、近くまで駆けつけていたが男子禁制と産婆に待つよう言われている。
室内にいるのは妊婦のと妹の浜路に産婆、後は2名程のお産経験者の女中らだ。

湯を沸かすよう女中らに指示、それから姫である浜路には丁寧な口調で汗を拭いてやるよう言づける。
お産する為の室内には現代のようなハイテクな機器も、分娩台もない。
ただ近くには囲炉裏があり、天井から吊るされた妊婦がいきむ為の紐があるだけ。
薪をくべ、急いで湯を沸かし赤子を取り出す為の準備を整えていく。

何人もの赤子を取り上げた彼女たちの手際は良く、ものの数十分で支度は整った。
激しい陣痛にの表情も厳しい、そんな姉の様子を心配そうに見つめながら浜路は浮かぶ汗を拭きとる。

そろそろ頭が下に下がり始め、出産は近いと経験から読み取った産婆は
産着に着替えさせたの前で一礼し、下衣の着物を捲る。
膝立ちをさせ、両足の真下に沸かしたお湯の入った桶を設置。
無事生まれれば産婆が受け止めてそのまま湯に入れれる為だ。

「――・・」

しかし着物を捲った瞬間、産婆の表情は険しくなった。
破水した羊水だけでないものを目にしたからである。

姫様、陣痛以外の痛みはありますか」

目の前で新たな命を産み落とそうと吊るされた紐を今まさに握りしめた
とても静かな声音の産婆が問いを投げた。
問われたは、神妙な声の産婆と問いかけの内容等を聞き・・悟った。

「破水してすぐ・・・」
「そうですか・・」
「え・・どういう事ですか?」
「私と・・現八の子・・・もう?」
「・・・如何しますか姫様」
「姉上?」

カタカタと震える唇を動かし、何とか産婆の問いに答えた
ただ一人状況が呑み込めない浜路の呟きが洩れる。

問いの答えを聞いた産婆の何とも言えない表情から、羊水とは違う液体の感触が気のせいでも勘違いでもないことに
今この腹の中に居る命はどうなったのかと訊ねる声は震え、双眸からはぽろぽろと涙が溢れた。

つい昨日まで、確かに生きていた赤子。
大きくなるお腹が、赤子の生きていた証・・・
今も自分の腹は大きく、中には赤子が居るのだと証明している。
それなのに、その命はもう・・・・?

「・・・っ・・亡くなって、いるんですね?」
「――そんなっ」
「理由は分かりませぬが、恐らくは」
「・・そう・・・」

赤子は死産だった。
室内は重苦しい空気に包まれる。

例え死産でも、私はこのままにしておきたくなくてきちんと生んであげたいと思った。
数刻前まで感じていた胎動も陣痛もなりを潜め、数分いきんだだけでその子は生まれた。
皮膚は暗く、顔は土気色・・死産だという事をまざまざと感じさせる現実。

この子は、女の子だったのかな・・・男の子だったのか・・何となくだが男の子だと判別。
受け止めた産婆は沸かした湯に浸し、綺麗に体を洗い流すと用意されていた産着に包みへ差し出す。
亡くなっているし、産声も上げないわが子・・それでも、生まれてくれた。
私に会いに来てくれたんだね、小さな手はきちんと人の形になっていて未熟児じゃなかった事だけでも救いだね。

姫様・・」
「姉上・・・」

黙して赤子を抱く様に、居た堪れない様子の産婆と以上に泣いてしまっている浜路。
駆けつけていた女中二人も目を濡らし、お産部屋を辞した。
産婆も一礼すると、労うようにの体を抱きしめ 浜路も姉を思って抱き締めると辞して行く。

一方で部屋から少し離れた通路でヤキモキ待っていた男性陣も、お産部屋から出て来た女中の涙や
俯いたまま出て来た産婆と、涙にくれた浜路の登場に、流石に良くない雰囲気を察知。
どうしたものかと悩んだ末義実は通路を後にし、泣いたままの浜路を腕に抱き締めた信乃が表情を険しくした現八の背を押す。

「・・・現八様、姉上は今お一人で部屋に居ます・・どうか行ってあげてください」
「犬飼、我々より傷ついているのは誰だ?」
「・・・・ああ」
「お前が支えてやらないでどうするんだ、夫なのだろう?」
「・・行ってくる」

背を押された惰性で一歩進んだ現八。
それでも歩き出せずにいると、涙声の浜路から1人で残るの事を託される。

折角宿った命・・・生まれて来る二人の子を何より楽しみにしていた姿が脳裏に浮かんだ。
口には出さないが、喜びの涙とは違う様子から信乃も現八も全て理解している。
その上で辛さも悲しみも理解した上で、信乃は現八の背を押した。

お前まで気落ちしてどうする、一番悲しんでるのは誰だ?と。
兄弟からの叱咤に現八もこれではダメだと受け入れ、強い眼差しを信乃へ向けると
一人残されたの居るお産部屋へと向かった。

どんな泣き言も嘆きも、全て受け止めてやろうという気持ちで。


+++


カラカラ・・と障子の音をさせてお産部屋を覗けば
此方に背を向けて座る、の姿を見つけた。
少し俯き、何かを抱えたままの姿勢で佇む背は、より一層儚く 頼りない。

どう声をかけるべきか躊躇われた。
取り敢えずゆっくりと近づき、言葉をかけるより先にの体を抱き締めてやった。
かけるべき言葉は後から考えればいい。
細い彼女の体を抱き締めた事により、現八はが抱える何かに気づいた。

「――・・っ」

そう、沈んだ雰囲気のが抱えていたのは既に息のない我が子。
伺い見たは、抱いた赤子を見るでもなく虚ろな目は凪のように静か。
何故か胸がざわついた現八、思わずの肩を揺する。

こんな顔をするを久しぶりに見た。
まるで、´大法師が亡くなった日のような・・・
いや違うな・・あの時よりもっと悪い・・・

「・・・現八・・」
「・・何じゃ」

揺さぶられ、思いの外すぐ此方を見た
その唇が僅かに動き、現八の名を呼ぶ。
合わさる視線に映るの表情からは、何の感情も読み取れない。

「ごめん・・現八・・・」
「なぜ謝る」
「・・・だって、私と・・現八の子・・・し」
「お主は頑張ってくれたじゃろ?わしらより先に天へ昇ってしまったが、こうして合わせてくれただけで十分じゃ」

ポツリポツリと呟くように話すの姿が痛々しく、思わず続く言葉を遮るように現八は言葉を被せ 息のない我が子の頭を撫でる。
今のに、死産と言う言葉を言わせたくなかった。

眼下で亡くなった我が子の頭や頬を撫でてやる現八の手や、指をはぼんやりと見つめていた。


懐妊の知らせから常に賑やかだった城内も、今は静まり返っている。
あれから亡くなった赤子は荼毘に服され、水子を祭る寺へと埋葬された。
明るかったは笑う回数が減り、食事すら満足に摂れない日々が続いている。

無理もない・・初産が悲しい結果となってしまったのだ。
気落ちし、塞ぎ込むのも無理はない。
それでも皆に気を遣わせたくないからと、公の場から姿を消し、自室に籠るようになった
一日中敷いたままの褥へ座り、何もない腹を見下ろす。

宿った命は、もうそこに無い。
皆が望み、私自身も欲し・・・現八と待ち望んでいた愛しい人との子供。
毎日少しずつ大きくなるお腹を見て、赤子が育ってるのだと実感した日々。

男の子かな、女の子かなと毎夜現八と話してはあれこれ想像したりした。
どちらも作ればいい、なんて、恥ずかしいけど嬉しいことを現八が言ってくれた・・

やっと生まれる、我が子に会える。
そう感じていたから、激しい陣痛にも辛いつわりも耐え抜けた。
なのに、会えなかった。

部屋中に響く産声、おめでとうと取り上げた赤子を抱かせてくれる産婆さん。
私以上に嬉し泣きする浜路、祝福に湧く女中が父上と現八達を呼びに行く。
駆けつけた父上の喜ぶ顔も信乃の嬉しそうな顔も、そして誰より喜んでくれたであろう現八の顔も・・・
全ては幻となり、現実に見る事は叶わなかった。

なんで・・?
どうして死んでしまったの?

ペタンこに戻った自分自身の腹部を撫でる。

私が、異世界から戻った人間だから?
それとも・・・玉梓に呪いの種を植えられたから?

呪いの種なんて実際に存在した訳ではない。
あれは比喩で、そんなものは私の中になど在りもしなかった。
私の心の隙間に根を張った疑心・・

やっぱり・・私じゃダメだったの?
私に、現八との子を生む資格はなかったのかな・・・

考えれば考えるほど深みに嵌り、心は沈んで行く。
出口のない迷路へ迷い込むかのように、この日以降は体調を崩すようになった。