花魁
『ごめん!』
そう飛び退いた沖田さん。
触れ合った柔らかな唇・・・・
そっと自分の唇に触ってみる。
確かに沖田さんの唇が重なった・・
もう逢う事もないと言うのに、沖田さんは私に口付けた。
理由は分からない、きっと沖田さんもそうなんだと思う。
だからあんなに驚いた顔をしていらした。
貴方の顔が離れてくれません・・
貴方の声が唇の感触が、私から離れてくれません・・・・
頬を伝う涙が何をしても止まってくれない。
逢えない、それが何よりの理由なんだと本能では気付いていた。
でも心と頭が付いて来ない。
今までの中で、これ程心に残る人に出逢わなかったから
まるで刷り込みされてしまったかのように心を捉われた。
捕らわれた籠のような女郎屋から見える外の自由な世界・・
遠くに見える花町の外に見える茶屋。
『花魁姿も綺麗だけど、普通の格好も可愛いよ』
何を見ても何をしても思い出すのは沖田さんで
目を閉じても浮かぶのは沖田さんの姿・・・
この感情と状態を何と呼ぶのか、涙だけが止まってくれなかった。
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気付けば半時の時が過ぎていた。
静かに泣いていたからか、襖の外から普段通りの女将の声が
「太夫、ちょいといいかい?」
着物の袖で涙を拭い、軽く白粉をはたいてから応える。
スッと少し襖が開けられ、横向きの体勢の女将が残りを上品だが一気に開けた。
「何用でしょうか」
「『葵屋』は知っとりますやろ?」
「へえ、知ってはりますがそれがどないしはったのですかえ?」
「彼処で大きなお座敷が開かれるみたいでねぇ、太夫にも来て欲しいて」
「『葵屋』で?」
「うちとちごうて『葵屋』さんは中くらいの広さやし、大きいお座敷となりますと花魁が間に合わないようでなぁ」
部屋に入るなり女将は別口の女郎屋の話を持ち出した。
女将が言うには、他からも数人の花魁を『葵屋』へ手伝いに寄越してるらしい。
本当ならお座敷になんて出る気分ではない。
ゆっくりと過ごす過程で沖田さんを忘れようとしていた。
でもそれは、此処で春(体)を売る限り叶わぬ事。
そうなるならば後は座敷へ出て、他の男に抱かれる事で忘れなければならない。
でも・・後者の方法で沖田さんを忘れる事は無理だと思っている。
前まで当たり前に行っていた演技・・・同じように振舞える自信がなくなっていた。
けどお座敷だけなら・・・と思い直し、手伝うべく『葵屋』行きを承諾。
手早く荷物をまとめ、大袖と小袖を引き連れて揚羽を出発した。
私は其処で、引き合う運命の糸を見る事になる。
『葵屋』は『揚羽』から少し奥まった場所にあった。
女将も言っていたが、広さは揚羽よりない。
中くらいの広さで周りは路地に囲まれており、人々の喧騒とは無縁の処にある。
『葵屋』の入口には1人の花魁がいた。
近づいてみて思ったが、目を見張るような美女・・・・
目元に赤い色を入れた花魁スタイルに、朱色の唇が女の色気を際立たせている。
結い方で太夫に近い位置の花魁だと私は感じた。
「貴女も呼ばれた方?」
「・・・其方様もですかえ?」
「此方は『揚羽』の太夫でございます」
「これはまた太夫はん自らお越しとは・・・助かりますわ」
「貴女は何処の?」
「申し遅れました、私は『葵屋』の花魁・・君菊と申します」
声を掛けてみればやはり美しい花魁だった。
年は自分より少し上に見える。
質問に質問で返した花魁はこの『葵屋』の花魁で、君菊と言うらしい。
小袖が私の源氏名を名乗り彼女が名乗った処で更に誰かが現れた。
「お待たせしました君菊さん」
少し幼い声、けれど私とそう変わらない年齢の声だった。
視線の先にいたのは君菊と知り合いらしい若い花魁。
髪結いは小袖と同じ水揚げ前の物。
京言葉ではない言葉からして、江戸の人だと分かる。
現れた人を、君菊は『千鶴はん』と呼んでいた。