流転 三十六章Ψ慈しみΨ



今まで成りを潜めていた玉梓の呪い。
それが、ちょっとした隙を突いて現れた。

呪いの手がに伸びたのは、武蔵国の宿場町へ着く前の野宿。
ずっと悪夢を見ないよう、余り寝ていなかった
現八から玉をお守りに、安眠を手に入れたから油断していたのかもしれない。

その日の夜は、玉を持って寝なかった。
持ち主は現八だからと、返してしまったのだ。

玉梓は、里見への出陣を戌氏と定正へ促し
操り人形化させて向かわせた。

それから、への念を開始。

「里見を攻め滅ぼす軍に、姫を招待してやろう・・・」

クツクツと喉を鳴らして笑い、水瓶へ手を翳した。
水面が揺らめき、野営をしている八犬士との姿が映る。
安心しきったような寝顔に、玉梓は憎しみを募らせた。

復讐に駆られている自分、犬士に守られ平穏に過ごす里見の姫。
直接処刑に関わっていなくても、憎しみをぶつける対象に変わりはない。
さて・・どう料理してくれようか。

「二の姫・・・姫よ、妾の声が聞こえるか?」

水面に顔を寄せ、の耳元で話しかけるかのように言霊を飛ばす。
水面に映るの顔が、僅かに反応を見せ始める。

の反応を見て、ニヤッと口の端で笑った玉梓。
声が届いているのか、眉を寄せて正面から顔を横へ向ける。
その様子に、玉梓は手ごたえを感じた。

「お主は姉姫を殺した、犬どもはお主を恨んでいるのじゃ。」

勿論根も葉もない偽りだ。
だが、その仮初の記憶を植えつけられ
記憶も不安定なは、それを信じてしまう。

何度も何度も、仮初の記憶を繰り返し見せ
信じ込ませるのだ、姉姫を確かに殺してしまった事を。


明ける事のない悪夢――


は、玉梓の呪いにより
再びあの夢を見せられていた。

自分が里見側から、玉梓側へ戻り後腐れを断つ為に現八達を殺す夢。

それから場面は変わり、30年前の景色になった。
城を出た姉が、玉梓を射掛けようとした大輔の矢に貫かれる所。
だが、今度は少し変わっていた。

何故か大輔とも姉を探していて、玉梓といるのを見つけた自分が
大輔から弓を奪い取り、射掛け・・・・姉を貫いてしまった。

玉梓が自分に見せてる事は知ってた、けれど止められなかった。
止めろって叫んでも、届く事はなくて
自分が放った矢で、姉は死んでしまった。

「殺せ、犬どもはお主を殺そうとしておる。殺される前に殺ってしまうのじゃ」

魘され、反応を示し始めたへ囁く。
は意識を乗っ取らんばかりに響く声を、聞くまいと抵抗を試みる。

あんな思いは、夢だけで十分だ!
もう・・誰も傷ついて欲しくない・・・傷つけたくない!
姉上・・・現八、信乃、小文吾・・荘助、大角。

惑わされないように、頭の中に皆の顔を思い浮かべる。
そうする事で、玉梓の魔の手から逃れようとした。

自分の力や思い、意志が自由にならない
命や仲間の存在を脅かす力に、初めて心が凍りつく感覚に襲われた。

自由の利かなくなる手を必死に動かして、皆と同じ痣へ触れる。

意識を乗っ取られてたまるかっ!
強く強く願った、痣に触れながらひたすら皆の顔を思い浮かべた。



カッ・・・・!!


意識を強く保つ事数分、ふと目映い光がの体から湧き出た。
湧き出た光は、の体を覆うようにして光り輝く。
その光は、水盤の向こうにいる玉梓へも届いた。

光はとても清らかで、照らされた玉梓に痛みを与える。
それでも止めずに力を注ぎ続けた。
水盤に注ぐ力を、気を込めて強くする。

「やめ・・ろっ!!」

力が強まったのを感じ取り、完全に意識を奪われる前に
渾身の力を込めて、は目を開き体を起こした。

古那屋へ戻る前の野営、起き上がった視界には自分を囲むように眠る3人の姿。
その姿を見てから、額に浮かんだ汗を拭う。
額だけでなく、体にもうっすらと汗をかいていた。

「はぁ・・はぁ・・・」

力の限りで抵抗したから、寝汗をかいてしまった
体は自由になったが、未だ頭に玉梓の声が響いてる気がしてならない。

それを完全に祓うべく、は立ち上がると
手拭いを持って水場を探しに行こうと思った。
――が、歩き出す前に誰かに呼ばれた。

「何処へ行くつもりじゃ」
「!?・・現八?起こしちまったか?」

低い声で呼んだのは、寝ていたはずの現八。
呼ばれただけで心臓が跳ねる。
別に悪い事をしようとしてた訳じゃないのに、焦ってる自分。

起き上がって、こっちに近づいて来るその動作。
何かそれだけで顔が熱くなる。

「別に?そろそろ夜明けだ、起きようかと思っておったしな。」
「そっか、俺ちょっと顔洗ってくる。」
「ならワシも行こう」
「え?1人でも行けるぞ?」
「念の為じゃ」

顔を洗いに行くと言ったら、何故か現八も手拭いを取り
一緒に行くと言った。
理由を尋ねれば、念の為だとだけ言って歩いて行ってしまう。

念の為って何?まさか俺が迷子にでもなると思ってんの?
子供扱いは止めて欲しいなぁ・・あっちの世界に生れ落ちなければ
俺、現八より年上だったかもしれないのに。

でも、傍にいてくれる事実が嬉しくて
心がぽかぽかするんだ。


先を歩きながら、現八は後ろをついて来るをチラッと見る。
は自分がさっき起きたと思ってるようだが
実はそれより先に目は覚めていた。

だから、が何やら魘されてる事に気づいていた。
ただ見てただけでなく、起こそうとしたがそれより先にが目覚めた。

あの時、玉の力で祓われたと思ってたが
また何かに苦しめられているんじゃろうか?
玉では無理だったのか?

ワシはまた、苦しむお主を見ているだけしか出来んのか?

を心配し、自分があまり力になれない事を悩む現八を
後ろからその背を見つめていた。
悩ませてしまってる、不思議とそんな気がしてならない。

俺がもっとしっかりしてれば、現八を悩ませずに済んだのか?
女だってバレてなければ違ってたかもしれない。

「そういえば、背中の傷はもう大丈夫なのか?」
「は?え?ああ、あんま痛くねぇし・・」
「嘘ではないだろうな?」

水場を探して歩く中、ふと問われた言葉。
その内容よりも、突然本名で呼ばれた事の方に驚いた。

驚いたが、すぐに問いかけに答える。
一瞬疑うような目で見られた、嘘は言ってない。
本当に嘘のように痛まない。

「・・・・・サラシとやらは、巻き直したか?」
「??ああ」

すると今度は、サラシを巻き直したのかを問われた。
質問の意図が分からず、不思議そうに肯定すれば
現八に手招きされる。

「触れるだけじゃ、すぐ終わる。」

その言葉通り、ふわりと現八の胸元へ引き寄せられ
腫れ物に触るかのような、優しい仕草で現八の指がの背に触れた。

ビクッと体が反応、一気に背中と顔が熱を持つ。
背中に触れた現八の指は、傷の在る辺りを滑るようになぞる。
自分達を包む空気が、熱を孕むかのように感じられ頭がボォーッとしてしまう。

優しく引き寄せたの体、自分の体で隠せてしまえる位に華奢。
指に触れる衣の上からも、柔らかい感触を感じる肢体。
の言葉を疑った訳ではないが、確かめずにはいられなかった。

まさか、服を脱げとも言えんしの。

そうして触れた限り、痛々しい傷の凹凸は指に感じなかった。
まさか、あれ程の酷い傷がたった2日で治るはずはない。

だが実際、本人は痛みを感じないと言ってる。
布越しだが、触れた限りそれらしい凹凸はない。
傷が・・・消えたとでも?

信じられない事だが、深く追求したりはしなかった。
今は唯、この腕の中の存在が愛しくて・・慈しみさえ感じていたから。