一つの勇気



勇気なんて、ないよ――


太陽みたいに笑ったその人。
眩しくて眩しくて、日陰にいる私は溶けてしまいそうだった。

『こんなの・・勇気なんかじゃないよ』
『・・・アンタさ、ホントに飛ぶ気だったんかよ』
『・・・・・・・・・・』
『飛ぶ勇気があんのに、立ち向かう勇気はねぇのか』
『分かったようなこと言わないでよ』

その人の脚の間に座り込んだ私の目から
恥ずかしいって思ってるのに涙が溢れる。
会ったばかりのこの人に、泣いてるとこなんか見せたくないのに。

上体を起こしたその人は何かを見極めるように私を見ている。
見られてるのに涙は止まってくれなかった。

『妹・・・いるんだろ?さっき、言ったよな』
『・・・・・いるわよ・・大切な、たった一人の妹よ』
『なら逃げずに立ち向かえよ、アンタが今飛んだら・・妹守れんのか?』

その人の目は、冗談を言う目じゃなかった。
目の中の強い意志に射抜かれるようだった。

私は今・・何をしようとしてたんだろう。
煉(れん)を守る所か、自分だけ楽になろうとしてた。

私がいなかったら、煉は守れない。
あの子までもが私のようになると思うと
何をしようとしていたのかに気づかされた。

、お前これから毎朝此処に来いよ』
『なっ・・・何でよ』
『俺がいない時に勝手に飛んだりしねぇか見張る為に決まってんだろ』
『ちょっ、勝手に決めないでよ!』

くしゃくしゃっと頭を撫でられた。
自分より大きな手が、私の頭を撫でる。

久し振りにそうされて、少し気持ちが楽になるのを感じた。
強引な人、それでいてその人は私に生きる勇気をくれた。
私の隣で一緒に歩いてくれた。

何よりも、中学生活を送る中での心の支えになってくれた。

約束をさせられた日から、少しずつ何かが変わって来た。
その人はいつも絶妙なタイミングで現れる。

脅す目的で現れる男子が近付くか否の時とか。
さり気なく来てくれるのだ。

『よっす
『――どっから湧いたのよ、しかも呼び捨てしてるし・・』
『湧いたとか言うなよ失礼だな、それよりもサボろうぜ』
『また?!幾ら義務教育だからってヤバいわよ』

でも私は、嫌じゃなかった。
寧ろ凄く有難くて、彼のおかげで学校にも通えてた。

何気ない会話でも異質だったその人の存在は大きく
男子生徒もあまり近づいて来なくなった。
そうやっていつも、その人は私を守ってくれてたのかもしれない。

なのに、私は中学卒業して高校に入り
今この瞬間まで、その人の名前を知らない。
教えてくれないまま別れは突然訪れた。



『もう飛ぼうとか思うなよな』
『分かってるわよ』
『・・・元気でな』
『そっちもね』

卒業式の日、出会った屋上で交わした最期の言葉。
お礼が言いたかったのに、最後の最後までそれは出て来なかった。

その人は男子校へ、私は女子高に。
道は分たれてしまった。
もう死のうとなんてしないって、その人と交わした約束。

けれどあの父親がそれを許さなかった。
隣町の高校を選んだ事を怒り、それは暴力へと変わって
無理矢理私を転校させたる事態にまで発展。

反論すれば暴力で返され、恐怖で縛る。
私がバイトで稼いでも、すぐに取り上げられてギャンブルに使われた。

私に逃げる事は許されない。
逃げてしまったら・・煉を守れないもんね。
アンタと約束しちゃったから、死のうとしたりしないって・・・・

―飛ぶ勇気はあるのに、戦う勇気はねぇのか―

挫けそうになる度に、その人の言葉に支えられた。
今・・どうしてるんだろう。

ちょっと久しぶりに顔が見たくなっちゃったよ。
情けねぇツラしてんなよって怒ってよ・・・
都内の進学校に通わされる事となった時から、私の生気は失われていく。

毎日のように行われる暴力とその後の仕置き。
体はボロ雑巾のようで、その人と交わした約束すら守れそうにない処まで追い詰められて行く。



□□□



飲んだくれたソレが寝入ってる隙を突いて、煉を連れ出した。
身内がソレしかいない訳じゃない。
母方の祖母と叔母も付近に住んでいた。

普通だったら引き取ってくれただろう。
けどそうならないのは、ソレの演技のせいだった。
心配した祖母や叔母が来ると、ソレの態度は母が生きていた頃の優しい父親に戻る。

三人で何とか暮らしているから心配しないでくれと
僅かな希望すらソレはぶち壊すんだ。

誰も気づいてくれない。
私達が出してるSOSに。

川が見渡せる道を歩きながら、呆然と澄み切った空を見上げた。
空はこんなに澄み渡ってるのに私達の世界だけが暗く淀んでいる。
こんな空に似合いそうだね・・・・

燦々と輝くそれを見て、久しぶりにその人の事を思い出した。
もう顔も朧で、口許くらいしか思い出せない人。
暗く淀んだ世界に、初めて光を当ててくれたその人。

もう何の希望もないよ・・・

「初めて会ったばかりなのにあんな真剣で・・・」

どうでもいいはずなのに凄く真剣な顔してた。
じわりと浮かぶ涙。

泣いてばかりな弱い自分に呆れてしまう。
煉もいるのに泣いたら駄目だよ。
強くいなくちゃ駄目なのに、泣くなよ私!

「そんなに泣いたら目が溶けちゃうぞ?」
「――!?」

そんな時に聞こえた声、思わず顔を上げると
その声は女の人の声で・・・
声をかけてたのは私ではなく、妹の煉だった。

転んだのだろうか、膝の汚れた煉を立たせて
汚れを払ってやりながら優しい眼差しであやしている女の人。

その眼差しは、温かくて母親のようだと思った。
女の人とは反対の方に歩いて行く男の子の背が見える。
涙のせいで曇ってよく分からなかったけど、歳の近い人な気がした。

「一人で来たの?お家の人は?」
「ううん・・・おねーちゃんと来たの」
「そっかそっか、お姉さんと一緒に来たのか」
「うん・・あ!おねーちゃん!」

前方で交わされる会話に意識を戻し、立ち去る青年から妹へ視線を向け
自分を探している小さな姿に駆け寄る。

ニコッと笑って自分に抱き着く煉を抱き締めてから
妹を助け起こしてくれた女の人へ向き直った。

「妹がすみませんでした、ほら煉・・お姉さんに有り難うって」
「あ、いいえ気になさらずに・・・・」
「おねーさんありがとうございましたっ」
「可愛い妹さんですね」
「有り難うございます・・」

黒髪を二つに結わえ、淵のない眼鏡をかけた女の人。
温かみのある笑みを浮かべたその人は、妹の名前を聞いた時あれっと言う顔をした。

どうもそんな反応をされると気になる。
そうなったのは中学のあの時からだと思うけどね。
屋上から飛ぼうとしたあたしを、すげーじゃんと言ったその人のせいで。

煉の髪の毛を撫でながら女の人は柔らかい笑みを浮かべて
あたしの不思議そうな顔に気づいたのか、微笑みながら言った。

「いや、あたしの生徒の一人にいるんですよ『廉』って名前の奴が」
「・・・字は違うんですよね?」
「まあそうですけど同じ響きだったもんだからつい」
「そうだったんですか、何だか素敵ですね」
さんでしたっけ・・今の若い子にそう言ってくれる子がいると何だか嬉しいですね」

字は違うけど妹と同じ名前の生徒さん。
さっき見たのがそうだったのかな。

山口久美子と名乗ったその先生。
この人に教わる生徒の人が、不思議と羨ましく感じた。