起きた時、既に6人の兄達は出発した後だった。
今日はいつもより早い出発だったんだなあ・・・・
昨晩も顔を見れなかったし今朝も見れなかった。
降りて行くと大体は涼太兄さんが¨おはようくん¨と出迎えてくれた。
それから早起きの阿部先輩・・いや、亮兄さんが現れて
照兄さんかふっかさんが起きて来る。
ラストを争うみたいに翔太兄さんと大介兄さんが起きて来る・・
そんな光景が、いつの間にか日常の一部になっていた。
多分これら一連の流れが私の中のルーティンになっている。
―行ってきます―
たったこれだけのやり取りでも、外せない日常風景の1つになっていた。
エレベーターで下まで降り、静かなハウス内の玄関を眺める。
あそこに立って6人の兄達を見送るのが毎日楽しみで・・
数日出来ないだけでも物足りないなと感じてしまうくらいに
私の中の一部になっていた。
また明日、いつもみたいに見送ればいいじゃない?
そう分かっていても妙に心がざわついてしまう。
明日も今までと同じ気持ちで此処に立てるはずなのに
それが出来なくなるような、そんな不安?
・・・・変な私。
そんな事をしてる間にも時間は過ぎ、時刻は朝の8時40分。
キッチンにはラップ掛けされた涼太兄さんお手製の朝食が置かれていた。
孤食にはなるが、私の分も用意してくれたんだと思うと心が温かくなる。
ミートソース和えされたスパゲティとサラダをテーブルに運び
オニオンスープもカップに注いで朝食の用意が整う。
「いただきます」
誰も居ないリビングに私の声だけが響いた。
いつもとは何かが違う空気を感じつつ、黙々と朝食を私は終える。
今日から大学院に復帰だ、不安は大きいが安心出来る要素も兄達が作ってくれた。
この問題をどう切り抜け片付けるべきか・・まだ答えは見えない。
どうすれば兄達に迷惑かけずに済むのかばかりを私は考えていた。
そして今までと同じように10時半くらいにシェアハウスを出発。
途中に在る公園に立ち寄り、こそこそと男装から本来の性別へ戻る。
だが心なしか少し足が重い感じがした。
負けたくないのに大学院へ行く事が怖い。
しっかりしろ私、大学院の学費は誰が支払ってるの?
招待入学したとは言え学費が免除される訳ではないのだ。
全て養父母が支払ってくれたからこそ招待入学が可能になり通えている。
きちんと卒業する事が養父母への恩返しだ。
私だけじゃなく、弟の細雪の学費まで出してくれてるのだ・・逃げる事はしたくない。
重い足を引き摺るように歩き続ける。
そんな所へ鳴り響いた受信音。
兄達かな、と自分でも驚くくらい俊敏にiPhoneを取り出す。
¨ごめんちゃん、今日私風邪引いちゃって休みなの・・会いたかったのにごめんね;¨
開いた画面に表示されたのは兄達からではなく
今日久々に会えるのを楽しみにしてくれていた知人、静からのメッセージだった。
残念だけど風邪は仕方ない・・、大丈夫だよまた治ったら会いましょうと返信。
僅かな安心要素だった静の不在・・・益々気は重くなる一方だ。
コワイコワイニゲタイ
逃げたらダメだ、負けたくない。
相反する心が鬩ぎ合い息が詰まりそうになる。
それでも何とか心を奮い立たせ、はゆっくりと大学院へと歩き出した。
時間をかけたせいか、大学院へ着く頃には生徒もまばらで
何処に有志の院生らの目があるのか等は目視出来なかった。
正門を潜り、中庭を抜けながら玄関へ歩く。
の教室があるのは本校舎、キリスト系列でもあるので偶にミサも行われる。
教室まではエレベーター乃至階段を使って向かう。
下りなければ階段は使えるので、3階までなら階段で行こうとは向かった。
日常が一瞬遠ざかるまで残り10分・・・
迷ってなんかいないでもう少し早く来ればよかったと、強く後悔する事になった。
講義には数分くらい遅れるかもしれない、けど参加すれば単位は履修出来る。
それに人はまばらだけど廊下を通って移動するよう心掛けた。
3階に着き、他の教室の前を通って自分の教室へ歩く際
階段を上った目の前の壁に埋め込まれた大きな鏡の前を通り抜けた時だった。
「――もごっ」
突如影から現れた手に左側から口を塞がれたのである。
そのまま反対側からも腕を掴まれ、教室とは別の方向、階段側へと連れ出された。
声を出したくても口を塞がれて叶わず、截拳道の構えも取ったが一般人相手に使うには危険が伴う為躊躇った。
成すすべなく引き摺られるように階段へ向かわされる様は
鏡を介し、右側のクラスの院生から数人が偶々目にしていた。
その教室が少し賑わった時、既には何者かの手で階を上がらされ
訳が分からないまま歩かされ、どことなく見た事のある階へ連れて来られていた。
この一段と人気がない一角と・・窓の外から見える中庭と正門前。
普段から使用される機会が少ないこの場所・・・
これあそこだ、卒業式の日に私が亮兄さんと話したあの――
場所は一発で探り当てたが、嫌な予感しかしない。
声は出ないながらにも私を此処へ連れて来た2人組を見た瞬間悟った事がある。
両側から私の腕を拘束して歩く2人の男子院生の顔は、忘れたくても忘れられなかったから。
落ちた時顔も見たし目も合ってたから一層記憶に刻まれている。
この2人は紛れもなくつい3日前に私と静さんに故意にぶつかったやつらだ。
まさか復学したその日に接触して来るなんて・・・
2人の男子院生は何も言わず、無言で歩き、一番奥に在る教室へ入った。
この2人から何も言わないって事は、恐らく連れて行くのだ・・この2人の背後に居る黒幕の元へ。
思った通り、そこに居た。
教室の教壇の椅子に座る威圧的なオーラを纏った美人が。
整った顔のせいか凄味もあり、彼女だけその場に浮き出てるような何とも言えない迫力。
「良い恰好ね」
目鼻立ちの整った美人から発せられた言葉。
私の事を言ってるんだと気づくのが数秒遅れた。
一度見たら忘れられそうにない域の美人なその院生が口の端を上げてほくそ笑む。
ただ阿部曰く、の方がダントツで美人との事。
まあそれはさて置き、男子院生に拘束され身動き出来ないを見下すように眺め右手を開き指で招く動作をした。
傀儡のように無口な男子院生がその合図を見てを拘束したまま教壇に歩み寄る。
目線をその女子院生より低めになるよう膝をつかせられた。
「いい気味ね、天才とか言われて騒がれてるお子ちゃまさん」
「・・・・私が憎いですか?」
「は?」
「私が憎いからこの2人に指示し、知人にわざとぶつかって私に助けさせて転落させたんですよね?」
「・・・何よ・・頭が良いアピールでもしてるつもり?思い上がりも良いところね」
「もうこの際階段の事はいいです、ただ知人を巻き込んだ事だけは許せません」
それだけはどうしても言わせて下さい、とは目線を合わせたまま口にした。
本当は怖いし声が震えそうなのを隠して向き合っている。
しかし恐怖に負け、言われっぱなしにだけはなりたくなかった。
あの日の恐怖だって忘れる事は出来ない。
それは一緒に居た静とて同じ、巻き込まれたとはいえ階段から落ちそうになったのだ。
自分と同じように階段を下りられなくなってるかもしれない。
そう思うと何度謝ったって足りないくらい、彼女を傷つけてしまった。
しかもそうなる原因が私となれば、ここで言われっぱなしにはなりたくない。
静の分まできちんとこの人らに謝って貰うまでは。
冷静な目つきでの言葉を聞いていた女子院生、その表情に嘲りの色が浮かんだ。
「だから?今更謝れとでも?」
「人として当然じゃないんですか?私より先の時間を生きて来た中で学ぶ事でもあると思います」
「・・・なっまいき・・アンタみたいなクソガキが、粋がってんじゃないわよ!」
「――っ!!」
嘲りは怒りへと色を変え、女子院生が片手を振り上げた瞬間
自分の頬が高い音で鳴り脳が揺れた。
癇癪持ちの美人かな・・・と思うくらいの激しい怒り。
正論過ぎて地雷を踏んだのだろうか。
両の頬が女子院生に叩かれ、叩かれた頬はヒリヒリと痛んだ。
するりと伸ばされた女子院生の両手が私の胸倉を掴む。
いつの間にか女子院生は椅子から立ち上がり、膝をつかせられた私を見下すように仁王立ちしている。
冷たく冷えた目を、私は久し振りに見た。
その目が思い出させる・・忘れていた伯父の存在と暴力、それから・・・
何かを予期した瞬間、強い恐怖に襲われそれまでの冷静さが私から失われ始めた。
「怖いの?さっきまでの生意気さはどうしたのかしらね・・丁度いいわ、これを機に体に覚えさせてあげる」
「・・・やめて」
「そしたらもう阿部先輩と親しくなろうとなんて思わないでしょう?」
「こんな事しても貴女が傷つくだけよ!私に何をしたのか、亮兄さ・・阿部先輩に知られたら傷つくのは貴女よ」
「フン、バレなければ傷つく事なんて無いし私の心配してるとか虫唾が走るわ」
何をされるのか体が予期して勝手に震えて来る。
両側から私を拘束していた男子院生らが動き、乱暴に立たせ
教壇の左側の隅へ連行するみたいに連れて行くのだ。
ヤバい。
どうにかして回避しようと女子院生に声を掛け続けるが
彼女自身も聞く耳を持たない様子だった。
この先予期した通りの事をされ、それが明るみに出た際
一番辛くなるのは女子院生自身だというのに、今の彼女は冷静な判断すら失っているようだった。
隅に連れて行かれたは力では敵わず男子院生らに組み敷かれる。
「今ならまだ戻れます、やめさせて下さいっ」
「煩いわね!アンタが悪いのよ・・天才才女才媛とか言われて持て囃され・・・挙句の果てに阿部先輩に近づいた・・」
「その事と阿部先輩は関係ないですよね?私別に言い寄ったりしてないです」
「アンタの意見は聞いてないわ!阿部先輩に近づいた、それだけで十分私の逆鱗に触れてるのよ」
何この無茶苦茶な理由!!
恐怖もあるが呆れて物も言えなくなって来た。
正論を説いてもこの人には届きそうにない。
組み敷かれていては逃げる事も叶わない・・・
忘れたくても忘れられない光景が勝手に脳内で再生されるし吐き気すらして来た。
懸命に逃れようと手足を動かすも、もう1人の男子院生に抑え込まれてしまう。
どうしたらこの危機を乗り越えられる??!
声を出せたとしても此処は人も滅多に来ない場所。
助けを求めようにもiPhoneは弄れない。
「私は終わるの待ってるから、じゃあね」
折れそうになる心、辛うじて立ち去ろうとする彼女を睨みつける。
截拳道の技・・使いたくないけど使うしかない?
悩んでる間にも圧し掛かった男子院生が着ている上着のブラウスを力任せに脱がせた。
「んぐっ――!」
「悪いな、これも月華さんの願いなもんでね」
ボタンは弾け飛び、晒される素肌と下着。
まだ未発育で貧相な胸元もひんやりした空気に晒された。
この場にそぐわない冷静な男子院生の声は恐怖を増幅させる。
いやだ、もう赦して・・伯父さん――
来る日も来る日も捕まっては殴られ、閉じ込められては・・・・私に触って来た卑しい手。
義母と従妹に救われるまで続いた夜の躾・・・。
抵抗らしい抵抗も出来ず、2年・・それは続いた。
操は守ったが、救いの手が齎されてから生理は始まらず
肉体的な発育も止まってしまった。
また、そんな風になるの?
他人を警戒し怯えるだけの日々に?
常に神経を研ぎ澄ませていた日々は辛さしかなかった。
微かな音にも反応して目が覚める、眠いのに眠れない恐怖の日々。
もう、そんな生活に戻りたくない。
ベタベタと触っている男子院生の手。
それらの感覚に耐えるの脳裏に、嫌な記憶をかき消す勢いで温かな風と声が響いた。
広い家の中のレッスン室みたいなところで、6人の人影が車座になり
私の事を優しく温かな眼で見ている光景。
皆顔ははっきりしないけど笑顔なのだけは分かった。
ダンスの振り付けみたいな動きを再現する私と、キラキラした眼で見守る6人の人達。
何だかとても安らいで、懐かしくて涙が溢れたと思う。
それからの記憶は曖昧・・覚えているのは、キラキラした6人がとても大事な人達だという事のみ。