ある小雨が降る日の夜、私は家を飛び出した。
理由は話したくない、宵闇の中をただ夢中で駆けたあの日・・
ただただ怖くて気持ちが悪くて、このまま消えてしまいたいとすら思った。
でも、あの家にはたった一人の肉親、弟の癸が残っている。
人の良い顔をした悪魔の住む家に大事な家族を残したまま逃げる事も消える事も赦されてないのだ。
ほんの少しの時間でもいい・・外の空気を思い切り吸い込みたくなった。
あの家はとても息が詰まる、本来なら心が休まるはずなのにね・・・
小雨に体を濡らしたまま歩く事数分、少しずつ頭が冷静になって来た。
現在地は埼玉県にあった且つての自宅方面に向かう国道沿いを歩いている。
伯父の家は県南にあり、都内に近い場所だ。
そこを飛び出した私は知らず知らずに且つての自宅方面に歩いていたらしい。
もう人手に渡り、自分達が暮らした名残は残されてないだろう。
無意識にそこを目指してしまう辺り、思った以上に私はまだ過去を引きずっている。
未だに信じたくないし信じられないのだ・・飛行機事故で父と母が既にこの世に居ないなんて。
結婚記念日に旅行をプレゼントしたくて貯めといたお年玉を貯金箱から全部出し
そのお金で沖縄旅行をプレゼントした時の両親の嬉しそうな顔・・・
これ以上ないくらいの親孝行が出来たと私も嬉しかった。
行ってくるよ、いい子で留守番してるんだぞ
お土産宜しくね!
はいはい、戸締りはしっかりするのよ?癸の事頼んだからね
ねーちゃんの言うこと聞いてればいいんだろ?良いから楽しんできなよ
いってらっしゃい
そう見送ったのが昨日の事のように感じる。
じんわりと視界が滲んだ。
その後は近くに見えて来たコンビニで雨宿りがてら立ち寄ったんだっけな・・・?
入店した時のお客は自分を含めた4人だったと思う。
雑誌コーナーに一人、ランニングスタイルの年上っぽい男性が居て
文具を扱うコーナーに私と歳の近そうな不良っぽい外見の青年が二人居た。
不良っぽい二人とは目を合わさないように飲料コーナーを目指す。
その私の背には不良らの視線が注がれていた。
季節は2016年の年末、時刻は夜の21時こんな時間に子供が一人でうろつくのは目立ったのかもしれない。
取り敢えず取るものも取らずに飛び出してきたから、持ち合わせは辛うじてズボンのポケットに入ってた250円のみ。
それでも缶コーヒーと100円均一のお菓子くらいは買えそうだ。
何となく気持ちが急ぐままに会計を済ませ、コンビニを出た直後・・続けてコンビニの扉が開く気配がした。
無意識に体が緊張し、後ろを確認する事なく私は早足で歩き始めた。
伯父の居る家に帰るのはただの恐怖でしかない、が、このままではそれ以前の問題だと思った。
あんなところでも今は帰る場所だ、癸も居るし何より救いなのは義母と義妹は私にも優しい事である。
その二人と弟が居るならまだ頑張れそうな気がして来るってものよね。
本当は怖いし伯父と顔を合わせたくもない・・でも何となくつけられてる気がする。
振り向くのが怖くて確認はしてないけど、暗い夜道に足音と気配が2つ・・・あれ?1つ増えた・・・・
あの不良の仲間が加わったのかもしれない、そう思うと一層早く帰らねばと心が急いだ。
気づくと人気は無くなり、景色も寂しい物へと変わる。
道路はあるが、歩道との区切りがガードレールからベニヤ板の細いものが二列継ぎ足されたものに。
板と板は針金で繋ぎ合わされ、その奥は草が茂ったような空き地。
とても嫌な雰囲気のとこへ来てしまった・・少し心細くなったあたりでついに魔の手は伸ばされる。
「おじょーさん」
「っ!」
「おー綺麗な子だ、こんな夜道に一人で心細くない?俺達が送ってってあげるよ」
「い、いえ・・家はここから近いので大丈夫です!」
突然後ろから伸びた手が、無遠慮にの肩に乗せられ引き止められた。
ビクッと体が震え、反射的に前へ逃げようとしたが
後ろの男をチラッと見るも、行く手をふさぐように現れた影が目の前に立った。
訝しむ間もなく気づく、予想した通りの二人組が声をかけて来たのだと。
親切そうな口調でそれっぽい事を言っているが目が笑っていない。
笑ってはいても剣呑な色が浮かぶものだ。
声を掛けたのはコンビニにいた不良の二人組だけ、直前に感じたもう1人の姿はない。
あの気配は気のせいだったのか、または途中まで方向が一緒だっただの通行人だったのかもしれない。
不良の仲間ではないと分かったのは良いが、万一ただの通行人だとしても助けを呼んで貰う事くらいは頼めたかもしれないだけに不安が増す。
そうこうしてる間にも男らは私の腕を引き空き地の方へと向かおうとしている。
これ絶対アカンやつ。
「いやそのホントに一人で帰れますからっ」
「遠慮しないでいいのにー俺達紳士だよ」
「そうそう、手間賃とか要らないしさ欲しいのは――」
「――やっ」
一気に焦った私は心の底から大丈夫ですと男らに言い募った。
しかしもう既に遅かったのか、男らは飢えた獣のようにギラついた目で言うのだ。
目は笑ってないのに口が笑ってる。
その異様な雰囲気に気圧された一瞬の隙を突かれ、真横からの二の腕を引いて歩いていた男に
強く腕を引かれたと思うと、のコンビニの袋が道路に落ちるのも構わず
「君からのお礼を先に貰いたいなーって事だけかな」
乱暴な動きで空き地の地面に転がされた私の真上から、猟奇的な目で男は言うのだった。
いつの間にか馬乗りに引き倒されていた事に、二人の言うお礼とやらの意味が瞬時に理解出来て――
「やだっ!いやだ離してっ」
「こら騒ぐなよ」
「お金なら後で払います警察にも言いませんっだから、お願いです、家に帰してくださいっ」
「ぎゃーぎゃー騒ぐな!死にてぇの?」
「――うう・・っ」
恐怖は声になり悲鳴へ変わる、が、すぐに察した男の手に口を塞がれる。
それでも顔を動かし出来た隙に何とか言葉を説いてみるがやはり話にはならない。
見かねたのか、馬乗りになった男とは違うもう一人の男が低い声で怒鳴りつけそれからギラついた目で私を睨んだ。
次いで肌に押し当てられた冷たくひんやりした感触・・・・
それを私の視界にチラつかせた男・・闇夜に光を放ったのはカッターナイフ、多分コンビニで見ていた奴だろう。
もしかしたら私を見かけた時初めから強姦するつもりで買ったのかもしれない。
脅された恐怖で黙るしかなくなった私の両手を頭の上で拘束、馬乗りの男は下品な笑みを浮かべ私の上着に手を伸ばした。
伯父から逃れられればいいと思って飛び出した、それがこんな事になるとは。
着の身着のままで飛び出したのも悪かったかもしれないが、あんな状況で冷静な考えは出来なかったんだ。
もういっそ、なるようになればいい。
私はもうヤケになっていた、帰ればまた殴られるだろうし・・また同じ苦痛を味わうくらいなら。
そう思った時だった、まるでその考え方を許さないかのように現れる気配を感じたのは。
荒い男らの呼吸だけが響く空き地に、不意に発せられた砂利を踏む音。
馬乗りの男と私の両手を拘束する男らが微かに訝しむ顔をした瞬間、道路側からブゥンと空気が唸る音がし
鈍い音が次いで聞こえた途端、私は自分の体に伸し掛かる重みが消えるのを感じた。
「いて・・・っ!」
「??」
呻くような声が私の右側で聞こえ、両手の押さえつけも消えた。
ふっと自由になった両手で先ず乱された上着のブラウスを引き寄せて胸元を隠す。
そうしながら上体を起こすと同時に、駆けて来る足音と人影が目の前に迫り
勢いのまま素早くと不良との間に立ち、もう一度を拘束しようとしていたらしき不良の左腕を捻り上げるようにして止めた。
不良が小さく呻いた瞬間に左腕を開放、目を丸くしたままのをそっと立ち上がらせる。
その動きは不良に対する扱いとは違い強い力だが優しい動きでへたり込んだままだったを立ち上がらせてくれた。
「くっそーてめぇ邪魔すんなよ」
苛立つ不良の気配が起き上がる中、割って入った人はを隠すように前へ立つ。
頼りない街灯は空き地までは照らしておらず、立たせてくれた人を見たが暗くて分からない。
でも駆けて来た際辛うじて見えた服装から、さっきのコンビニにいたランニングスタイルの人だと気づいた。
前に立つ背を見たが、とても背が高い。
165あるの背丈の倍はあり、広い背中が目の前にある。
イラついた口調の不良らは並び立つと、怒気を孕んだ声で落ちたカッターを拾い
お楽しみを邪魔した青年へ切っ先をカチカチと伸ばして向ける。
まともな言葉は通じない不良だ、助けてくれたこの人が危ないかもしれない。
どうしよう、と思わず両手を前に立つ青年の背へ添えるようにして身を寄せた。
それに気づいたのか、青年は前を向いたまま背に隠したへ囁いた。
通報はしてある、何とかするから隙を突いて逃げろ、そう青年は囁く。
相手はカッターナイフを持っている、通報したとはいえすぐ警察が来るのかは分からない。
無意識に寄り添ってしまった際触ってしまったこの人の背中。
畏怖する対象の異性、だが私のせいで関係のない人が傷つくのは嫌だ。
そう考え行動しようと決めた時
不意を突かれた。
同じタイミングで前に立つ青年の気配が動き
暗闇の中青年の手が肩に乗せられ、同時に近づく気配と香りが耳元に近づき囁いたのだ。
「俺が隙作ってやるから早く行け」
「でも――」
「うっせーなあ・・もう警察には通報したから逃げるなら今のうちだぞ」
「なんだって?」
「くっそてめぇ!だったらサツが来る前にてめぇから殺してやらぁ」
そう言う訳には、と口にするより早く青年は不良らへ通報したと告げに行ってしまう。
低く少し掠れた青年の声は色気があり、一瞬だけ聞き惚れた。
そのせいで出遅れたの目の前で乱闘が始まる。
繰り出されたカッターナイフの初動は長身の青年も分かっていたらしく避けた。
ふわりと影が揺れ、何かが地面に落ちて行く。
それが何なのか確認するより先に私の体も動いていた。
カッターナイフを持っていない方の不良が卑怯にも青年の背後から
捨ててあった角材を手ににじり寄っているのを見たから。
素早く右足を軸に左から体を捻るようにして一回転し、軸足を左に変えてから遠心力をつけ
内側から右足を振り上げて勢いのまま角材を構えた不良の左側の脇腹へ食らわせる。
「ぐあっ!」
此方に対し無警戒だった不良はまともに蹴りを受け、横跳びに空き地の雑草の方へ吹っ飛んだ。
その際手から離れた角材をが拾い、カッターナイフを手にしたままの不良へ向けて構える。
これには組手状態のまま平行線だった不良と青年が目を見開いて固まっていた。
襲おうとしていた相手に軽く伸された不良、ポカーンと口を開けカッターナイフを持った不良が動きを止めた際
そのカッターナイフを奪うのも忘れ、青年の方も改めて助けようとした少女を振り向く。
いつの間にか小雨は止み、絶妙なタイミングで雲は晴れて月明かりが少女や青年らを照らした。
月明かりに煌めくのはブロンドに近い色素の薄い茶色の髪。
少し嫌悪と怒りのような、それでいて微かな畏怖を孕んだ瞳が此方を見据えている。
まだ幼く華奢な体と乱れた衣服、それから一瞬だけ見えた痣のようなもの。
殴られたような音も悲鳴も聞こえなかった・・という事は?そこまで考えた時、少女が少し厳しい目で青年を見た。
「くそおおお」
「危ない!」
「――うっ」
ハッと意識を相対していた不良へ戻したのと同時にカッターナイフが振り下ろされるのが見えた。
無意識に急所の首を庇うように夢中で右方向に避ける、が、二の腕に焼けつくような痛みを感じた。
と同時に背後から駆ける足音が青年の耳に届く。
それから右の肩に添えられる手の感触を感じた直後、軽い負荷が掛かるや否
青年の右横を風が唸り、次の瞬間にはカッターナイフを蹴り落とし
やけくそになった不良が繰り出した拳を風でなく、少女が掌で受け止めて流し
腰を落とした体勢で体を反転させ不良の背後へ回り、左手の手刀を首の後ろへ打ち込んで気絶させた。
これまた一瞬の出来事である、まるで風を纏う鳥のような軽やかさ。
厳しい顔つきから戻った少女はすぐに鞄を探しに道路へ戻って行く。
それから鞄と荷物を手に空き地へ戻り、眉をハの字にした顔で青年の前へ戻ると街灯がある道路側へ誘導。
移動する前に伸された不良らを確認、昏倒しているが命に別状はなさそうだ。
確認してから少女に促されるまま街灯の下へ歩く、夜のトレーニングのはずがアクション映画並みの状況になるとは・・・
名前くらいしか聞いた事は無いが、あの構えと見事な蹴りと跳躍・・あれは
「テコンドー?出来るんだな」
「・・・正確には截拳道(ジークンドー)ですが、テコンドーの技も組み入れてるので正解みたいなもんです」
韓国の武闘家が空手を習った際、帰国して自分流にアレンジしたものがテコンドー。
だが女性が駆使するのはテコンドーではなく聞き慣れない武術の名前だった。
しかし、助けるつもりが助けられるとは・・・・・
中性的な声も何もかもが新鮮な経験で、青年は女性に対し少し興味を抱いた。
少女曰く、カンフーを基本とした技にテコンドーを始めとする他の武道や武術と格闘技を参考に生まれた武術との事。
他と違うのは必要に応じて相手の急所を攻撃する事もある武術だという事らしい。
スポーツと化した今は特に禁じられた急所への攻撃を主要技術としてるのだとか・・
襲われた時使わなかったのは、恐らく突然だったのもあり使えなかったんだろうと青年は予想した。
それは兎も角呼ぶのに不便だから名前くらいは聞いておこう。
「「あの」」
互いにそう思っていたのか、声を発するタイミングが被る。
目の前でテキパキとハンカチを取り出していた少女も、あっと小さく声を発して自分を見上げていた。
その時改めて分かった、街灯に照らし出された目の色が薄い青色をしている事に。
変わった色彩を持つ少女を数秒だけ見つめてしまった青年。
先に少女が空き地の方へ歩き、地面に手を伸ばして何か拾い上げている。
それから戻って来るのだが服装が乱れたままな事に気が付いている風がない・・・
そろそろ警官も駆けつけて来そうだからこのままだと色々誤解されそうだ。
「取り敢えず服、直しときな」
「・・・あっ、はい・・」
今が夜で良かったとすら思いながら青年は少女から視線を外しつつ言う。
脱げ掛けたブラウスと紺色のジャケットを着直し
マフラーを巻き直した後、は先ほど地面から拾ったものを青年へ差し出して
「あの、これ落ちてました」
おずおずと口にした言葉と帽子。
青年が視線を向けた先には街灯に照らし出された自分の帽子だ。
乱闘になった時に落としたんだろう、自分でも気づかない僅かな一瞬だったと思う。
軽く礼を言ってから被り直した時、此方へ向かってくる車輪の音が。
恐らくパトカーかもしれない、サイレンを鳴らさないのは時間が遅いからだろう。
気づけば時刻は夜の23時近く・・お互い帰らねばならない時間だ。
駆けつけた警官から恐らく事情聴取を受ける、こんな時間からそんな事されたら日付は変わるだろう。
青年は自分から少し距離を置いて車の音に振り返っている少女を見やる。
落ち着いてきたことで恐怖を今再実感してるのかもしれない。
名前を聞くはずが、互いにそれをせず近づいてくるパトカーを待っていた。
これが今から2年前の2016年年末の出来事。