月刊「百歳万歳」連載95

涙ながらの卒業式

神渡良平

人生にはいろいろある。上り坂もあれば、下り坂もある。日が当たるときもあれば、ボタンを掛け違えたかのように、何をやってもうまくいかず、落ち込むときもある。そのように人生には風雨はつきものだ。

しかし、失意の日、誰かが立ち止まり、「どうしたの。必要だったら、手を貸そうか」と声を掛けてくれ、あるいは時間を割いて話を聞いてくれたとしたら、どれほど気持ちが落ち着くかわからない。周囲の人々のちょっとした思いやりが、やる気を喚起してくれる。解決策は示されなくてもかまわない。分かち合ってくれる人があれば、気持ちが上向くのだ。それが契機になってやる気になり、苦境から脱出できたというのは多々あることである。

確かに私達が生きている社会は、とてつもない競争社会である。どんなことをしても勝ち抜かなければ、落伍してしまい、みじめな人生に転落してしまうというのも事実だ。しかしながら、人生はそれだけではないというのも事実だ。たとえ競争に勝てず、落ちこぼれ組のみじめさを味わったとしても、それによって人の気持ちがわかるようになり、ついには多くの人を使って仕事をするようになる人もある。人生、塞翁(さいおう)が馬だ。だから、その時々の成績で決め付けてしまわないで、温かい目で見守ることが必要だ。

ここに紹介するのは、神奈川県足柄上郡山北町立清水中学校教諭の中野敏治先生の手記だ。先生のクラスにいた不登校の女子生徒が卒業証書を手にするまでのことが描かれている。これを読むと、援助し育む眼差しが、成長する魂にとってどれほど大切か教えられる。そしてこの姿勢はただ単に教育者に必要なのではなく、私達一人ひとりにとって、こういう眼差しが必要なのだと教えている。

「卒業式の朝も、彼女は登校していなかった。二年生の新学期から私のクラスに転入してきた彼女。前の中学校でいじめによって不登校になり、私のクラスに転入してきた。環境が変わったものの、彼女の登校回数は増えなかった。

 卒業式当日、クラスの『朝の会』が終わったとき、生徒たちが『彼女を迎えに行こう』と言い出した。でも、迎えに行くには、あまりにも時間がなかった。だから私はみんなに『彼女がいつ来てもいいように、準備しておく』と伝えた。彼女の登校がたとえ午後になったとしても、体育館で彼女だけの卒業式を行なおうと考えていた。

 生徒たちは彼女のことを思いながら、廊下に並び、入場準備をした。

『卒業生、入場!』の言葉と共に、卒業生は式場へ入場した。みんな胸に花をつけている。私は胸に彼女の花を付けて入場した。

 式が始まった。開式の言葉、学校長の話、来賓の挨拶、そしてとうとう卒業証書授与が始まった。彼女はまだ来ていない。みんなが式歌を歌い始めた。その時だ。体育館に彼女の姿が現れた。歌の最中だったが、私は自分の席を探している彼女に走り寄り、席まで誘導した。クラスの生徒も彼女の姿に気づいた。クラス全員がそろっての式になったことの嬉しさに感激し、みんなの歌声が涙声になっていった。

 修学旅行も欠席した彼女に、クラス全員が京都から手紙を書いた。クラスの仲間の誕生日には、いつも誕生日の歌を歌い合っていたので、彼女の誕生日には、彼女がいなくても、みんなで歌った。『彼女の家の方を向いて歌いましょうよ』という声もあった。

 毎日、彼女の家を訪ねていたクラスメイト。自分の入試前日も、彼女の家を訪ねていた友達もいた。彼女を席に誘導するまで、私の頭の中で、たくさんのことが思い出された。

 私は彼女を席まで誘導すると、私の胸から花をはずし、彼女の胸にその花をつけた。式場の時間が止まったようだった。私はもう涙で声にならなかった。彼女の肩をたたいて、職員席に戻ろうとしたとき、彼女は『先生、ありがとう』と返事をした。

 学校長が『彼女に卒業証書授与するから、いいね』と職員席でささやいた。私はすぐに彼女に走り寄った。『今から、卒業証書授与するから、いいな』という私の言葉に、彼女は『はい!』とはっきりと返事をした。

 司会者が『ここで、もう一度、卒業証書授与を行ないます』と会場に伝えた。

『平成14年度卒業生 ○△□子』

という私の声は涙でくぐもってしまい、声にならなかった。でも、彼女は『はい』とはっきり答えた。それを聞いて、クラス全員が泣いた。来賓も、保護者も、職員も、泣いた。

 式を終えると、在校生がグランドで列を作り、卒業生を見送った。私はその列の最後に立った。卒業生は列の間を通り、在校生と別れをし、最後に、列の一番後ろにいる私と握手をした。その列の中を彼女も通ってきた。そして私を見つけて、走り寄ってきた。驚いたことに彼女は『先生……』と言い、抱きついてきた。

 クラスの生徒たちが私に贈ってくれた色紙に、彼女は『先生のクラスで幸せだった』と書いていた。

家庭訪問を繰り返してきた二年間。でも、彼女は一度も玄関に顔を出さなかった。行く度に、彼女に聞こえるようにと、あえて大きな声で親と話をした。でも彼女は顔を出すことはなかった。手紙も書いたが、返信はこなかった。

いろいろ問題はあったが、彼女は全然登校しなかったわけではない。あれは二年生の後半のことだった。ずっと休んでいた彼女が、遅刻しながらも登校したのだ。でも、彼女の姿を見た瞬間、素直に喜べなかった。髪を染め、スカートをすごく短くし、アクセサリーをいっぱいつけて登校したのだ。今まで一度もそんな格好で登校したことはなかったのに……。

彼女の姿を見て、全校生徒が騒いだ。多くの生徒が彼女の姿を見に来た。私は彼女の姿を見て察した。ここまでしなければ登校できないのか、と。その姿を見て、なぜかいじらしく感じ、涙が出そうだった。

クラスの生徒たちはとにもかくにも彼女が来たことを喜んだ。でも、私は彼女を家に帰した。だからクラスのみんなは驚いた。そこで私の気持ちをみんなに話した。

「今日、彼女が登校して、私もすごくうれしかった。きっとみんなの気持ちが伝わったのだと思う。それなのに、彼女を帰してしまって、ごめんな」

クラスのみんなは私が謝ったので驚いた。

「でも、私は彼女が登校するときには、彼女らしく登校してほしいんだ。もっと肩の力を抜いて登校してほしい。彼女はあのまま登校しても、きっと疲れてしまう。もっと彼女らしさを大切にしてほしい」

 そんな私の話をみんなはわかってくれた。

その日、私は彼女の家を訪ねた。彼女は母親に、

「学校に行って、みんなの顔を見ることができて、うれしかった。でも、ちょっと疲れた。それにやっぱり先生にこの格好を注意されたよ」

と話したらしい。

数日間、彼女を家に帰したことについて悩んだ。本当にこれでよかったのか、と。どこからか、「何しろ登校させることが最優先だろう」という声が聞こえてくる気がしてならなかった。

でも、あのときはどうしてもできなかった。あんなに必死に虚勢を張っている彼女の姿が痛々しかった。もっともっと彼女らしさがほしかった。

その彼女が卒業にあたって書いたクラスの色紙に、私には感謝の言葉をくれ、そして仲間たちには『ありがとう』の言葉を告げていた」

一人ひとりの生徒たちの魂にどこまでも向き合おうとされる中野先生は、「私は彼女に感謝しているんです」という。 「だって、彼女のお陰で、他のクラスの仲間たちが、仲間をとっても思いやる、やさしい生徒に変わっていったんです」

そんな眼差しで見詰められたら、固い殻に被われて、冷たい木枯らしから身を護っていた木の芽が、暖かい春の日差しに誘われて、芽を吹き出すように、誰でも自分に自信を持つことができ、外に出てこれるようになるのではなかろうか。

苦学して弁護士になり、戦後、宮崎県都城市長から衆議院議員になり、法務大臣や文部大臣をも務めた瀬戸山三男は、臨終の席で、「生命(いのち)の本質は他の生命を助けるところにある」と言い残した。自分という存在が、少しでも他の人々のお役に立てるのであったら、こんなうれしいことはない。私もそんな人生を送りたいものである。