後記
postscript
写真を撮り終わってひな壇に戻した。
なにごともなかったかのように表情ひとつ変えず、ひっそりと座る雛たち。
暖かだった陽差しは硬直し、部屋は冷んやりとさえ感じる。
にぎやかだった官女たちのおしゃべりは沈黙の闇に葬られ、
あどけない童子たちのお囃子ももう聞こえない。
こどものころ、段飾りの雛人形に憬れていた。
やがて私も子供を持ち、両親がお祝いにこの段飾りを贈ってくれたときは、わくわくするほどうれしかった。
が、確かにうれしいはずなのに、なにかが違う。望んでいた雛壇なのになぜか心が弾まない。
娘のためにお人形たちは毎年飾っていた。
4畳半いっぱいに飾られたお人形やお道具は、ちょっとしたことで段から転がり落ちるかもしれない。
無邪気な子供の手に触れて壊れてしまうかもしれない。
しかし不思議なもので、当時幼かった娘も、さらに2歳年下の息子もお人形たちに手を出すことはなかった。
幼い子供たちにとってこの段飾りは、とてつもなく大きなもののはず。見上げて見るお雛様は、あまりにも遠い存在だったかもしれない。
子供たちも成長してからは、雛人形は押入れの奥に仕舞われたままの年が続いたが、
私の母が入院したときに病室の枕元に親王の男雛と女雛を飾って見舞った。
ことしも母のところへ親王を届けようかと思ったが、代わりに我が家に段飾りを作り、写真を撮ってみた。
しかし、いい絵が撮れない。
段からおろし、陽のあたるカーテン越しで撮影を始めると、雛たちは驚くほど生き生きとしてきた。
とくに女雛たちは、「綺麗に撮ってね。」 「いやよ、この角度は。太って見えるわ。」
などと言っているようで、こちらもカメラマンになった気分で、
「はい、お嬢さん、きれいですよ-。」と褒めながらシャッターチャンスを窺がう。
そして、ふと思い出した。
憬れていた段飾りの雛人形を手にしたとき、その硬さにショックを受けたのを。
糊で固められた衣装は手になじまず、優しさが伝わってこなかったのだ。
お人形というものは、女の子にとって心を開ける友達なのだ。喜びも悲しみもお人形が共に感じてくれる。
抱っこして、あやし、話しかける。
髪をなで、頬ずりをし、抱きしめる。
時には流した涙もお人形がやさしく受け入れてくれる。
写真のお人形たちの表情を見て、なぜそれを忘れていたのだろうと、自分が子供のころの心を失っていたことに気がついた。
20数年たつというのに雛人形たちは綺麗に保存されている。しかし、これでよかったのだろうかとも考える。
娘の小さな両の手に抱かせ、愛撫させてあげるべきだっただろうか。
お人形さんたちは何を望んでいたのだろう。娘の抱擁を待っていただろうか。
光の中で笑顔を見せる彼女たちを見て、心が痛んだ。
きっと来年もあたたかい日差しの中でおしゃべりをしようね。
今度はもっともっとにぎやかに遊びましょ。
ね、お雛さま。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
AyeYai
2007年 如月